先物日記(2009年9月〜12月)
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2009年12月31日
京都駅まで妻を迎えに行った。
行きしなに、東寺のブックオフで「コーヒーの歴史」という分厚い本を見つけて思わず購入。
妻のつわりも今日はそれほど酷くないようだ。近鉄で再び奈良へ。
家族みんなで、年越し蕎麦を食べ、お菓子を食べ、みかんを食べながら紅白を観た。
2009年の相場の利益は650万ほどであった。内訳は
東工金 1,762,640
東工原油 -33,341,037
東工ガソリン 18,447,582
東工灯油 18,432,543
東工ゴム 1,215,420
合計 6,517,148
クラックが350万、金とゴムの買いで300万というところ。
昔の損失の繰り越しのおかげで無税なので、そのまま650万が収入となる。
この10倍くらいは欲しいものだが、投資資金から言えばこれくらいが相応かもしれない。
皆様、本年も先物探花をご贔屓にして頂き、ありがとうございました。
来年も宜しくお願いいたします。
2009年12月30日
実家でまったり。
出張の報告は年が明けてからで良いことになったので、実質的には今日から冬休みである。
来年度予算の政府案が出た。
税収が新規国債発行額以下になるという酷い状態になっている。
ここ最近、自分でも色々と考えたり周囲の人と意見交換したりしてきたが、
やはり相当に危ない状態に入りつつあると思う。
まぁ、財政破綻とか言い出すとオオカミ少年扱いされる向きもあるのだが…。
基本的な考え方として、名目経済成長率と名目金利が等しいという仮定の下では、
税収と支出が均衡する、すなわちプライマリーバランスが取れていれば、
実質的には債務は増加しない。
だから税収に見合った支出が大切なのだが、現状ではこれを実現するのは絶望的である。
プライマリーバランスがある程度は赤字でも、
名目経済成長率より金利を低く誘導することで実質的には債務を増加させないようにはできる。
しかし例えば、GDP成長率が5%のときに国債の金利が1%なら国債に投資する人はいなくなるので、
せいぜいその差は1%に収めるのが精一杯だろう。
GDP成長率の1%下まで金利を誘導できた場合には、
毎年債務が実質的に毎年1%ずつ目減りして行くので、
1000兆円ほど政府債務があっても、毎年10兆円程度の財政赤字なら債務は爆発しない。
しかし現実の財政赤字の規模はそれを遥かにオーバーしている。
そもそも、財政の半分を国債で補うという事態に長期的な持続性が無いのは明らかである。
もしそんな事態で長期的に何も問題が起きないなら、半分とは言わず、
それこそ政府は一切徴税せずに全ての予算を国債発行で賄っても良いことになる。
そんなバカな話はない。
ネット上でよく見かける意見としては、日本全体で見れば債権国なので破綻はしないとか、
日本の場合はどんなに財政赤字があっても紙幣を刷れば返済できるとか、
金利が上がることは有り得ないとか、政府支出を増やしてGDPを上げれば問題ないとか、
色々なことを言う人がいて面白いのだが、まぁ、各自がどう考えようとそれは自由である。
損益は自分自身に降りかかる問題なので。
個人的には、あと500兆円程度は国債もダマシダマシ消化はできるが、
そのあたりが限界だと見ている。
500兆円というとまだまだ大丈夫なように思えるが、
最後の方は指数関数的に財政が悪化するので、
今後5年後から10年後あたりにはかなり深刻な事態が訪れると考えている。
それも金利次第ではあるが。長期金利が3%程度にまで上がると、
財政赤字をファイナンスするのはかなり困難になる。
最終的に、日銀が国債を大量に引き受けるとともに、
インフレ(年率20%〜50%程度のインフレが数年間続く)、増税(消費税は20%程度に)、
資産課税(固定資産税や相続税の増税など)、年金制度や保険制度の崩壊などにより、
主に高齢者の資産が没収されて終息することになると思われる。
財政赤字は、プライマリーバランスが取れていて実質的に増加しなければ永遠に先送りできるが、
爆発して清算しなければならなくなれば、結果的には税金と変わらないことになる。
そう考えた場合、日本は実質的には、収入の半分以上を税金に取られて巨額の公共事業と福祉を行っている、
重税国家であるということになる。
銀行に預けているお金の半分は国債に変化してしまっているのに、
だれも国家に徴収されているとは考えていないのである。
とりあえず、金は先物も現物も買い、商品も目先は下げるかもしれないが長い目で見れば買い、
株も買いで考えている。
為替は相対的なものだから分からない(アメリカやイギリスの方が破綻が先に来る可能性もあるので)。
ただ、長期的に見て、若者の多い国は困難に遭遇しても乗り越えて行けるので、
アメリカはあなどれないと思う。
2009年12月29日
いつもトゥクトゥクで送り迎えをしてくれるお兄さんに空港まで送ってもらい、
握手して別れた。携帯の電話番号を聞いておいたので、
今度プノンペンに来ることがあれば、また頼むことにしよう。
搭乗手続きをして、空港内のお店で、銀のコップ2つとカンボジアンシルクのストールを購入。
これでドル紙幣はほとんど使い切ることができた。
1ドル札を大量に持ってくるという作戦は正解であった。
国内ではドル紙幣が普通に流通していて、
カンボジアの紙幣はドル以下の端数をやり取りするためにしか使われていない。
20ドル札や50ドル札は高額紙幣であり、偽札の心配もあってあまり好まれないので、
一週間程度の滞在なら、1ドル札を100枚ほど、後は5ドル札と10ドル札で持って行くのが良いと思う。
プノンペンから香港ドラゴン航空で香港国際空港へ。
ドラゴン航空のCAが美人ばかりでびっくりした。香港の低い美人率から考えると、
ほとんど有り得ない確率である。
香港空港ではお菓子やフカヒレスープや燕の巣なんかを購入して手持ちの香港ドルを消費した。
それでもまだいくらか残ってしまった。
香港には数時間滞在し、キャセイパシフィックで関西空港へ。
機内では「District 9」を観た。これはちょっと想像を絶する内容の映画であった。
宇宙人が地球にやって来る。相手が友好的ならば仲良くすればよい。
地球を侵略しに来たのならば、戦えばよい。どちらにしても対処の方法を決めるのは比較的簡単な話である。
しかし、帰る星を失い難民となった100万人以上の宇宙人が地球に漂着し、助けを求めたとしたら…。
しかもその宇宙人の外見が、地球人にとっておぞましいものだったら、どうするのか。
知的生命である以上、虐殺してしまうわけにもいかない。
映画では、宇宙人は隔離地区に収容され、その後28年の間に地区内は完全にスラム化してしまう。
それに伴い、地球人との様々な軋轢が生じ、問題が頻出するようになる。
宇宙船が漂着して隔離地区が設置されるのが南アフリカのヨハネスブルグという設定も、
この映画の主題を暗示している。
終わり方からすると続編がありそうなので楽しみだ。
やっと関西空港に到着。南海で難波まで出て、近鉄で奈良の実家に帰ってきた。
2009年12月28日
午前中は仕事。午後はプノンペン大学で授業。
晩は、いつもの食堂の前を通って近くのレストランに行ったら、
なんで今日はうちに来ないの、という感じで食堂のお姉ちゃんに睨まれた。
レストランでは、中国の聞いたことない名前のビールを勧めるお姉さんが美人だったので、
思わずそのビールを頼んでしまった。ビールは水っぽくて不味かったが、
担当のお姉さんに常駐されてしまったので他のビールを頼むことも出来ず、
仕方無しにそればっかり飲んでいた(でも、鍋を作るのを手伝ってくれた)。
料理はワタリガニらしき蟹が入った海鮮鍋で、なかなか美味しかった。
カンボジアも明日にはお別れである。かなり楽しかったのでまた訪れたいものだ。
あと、タイとベトナムにも行って、雰囲気の違いなども感じてみたい。
ホテルでネットに繋いでカンボジアの情報を見ていると、
カンボジアがここ10年くらいで飛躍的に豊かになったことがわかる。
90年代後半の旅行記や写真を見ると、町は荒れ果て、物乞いがあふれているが、
今は街も整備され、行き交う人々の服装も綺麗になり、
物乞いもいるにはいるがそれほど多くはない。
まぁ、農村部はまだまだ貧しいのかもしれないが。
新聞で読んだが、来月、プリンセス天功がプノンペンに来るらしい。
あと、記事で魚醤作りの様子が書いてあった。
カンボジア料理で使われる魚醤はとても美味しいのだが、頭とヒレを取った小魚を、
おばちゃんが足で踏んで潰して作るらしい。
昔はワインも女性が足でぶどうを踏んで作っていたらしいので、それと同じ原理かもしれない
(足の裏の乳酸菌で発酵が促進されるらしい)。
ちょっと複雑な気分。
2009年12月27日
午後から時間が取れたので市内を散策してみた。
カンボジア人は歩くのが嫌いなのか、歩いている人はほとんどいない。
みんなバイクタクシーなどで移動している。
トコトコ歩いていると、ひっきりなしにバイクやトゥクトゥクがやって来て、乗らないかと言ってくる。
しかしいらないと言ってひたすら歩く。
道路の信号が機能していない所が多いので、道路を渡るには少しコツが必要。
完全に交通が切れることは無いので、あまり車やバイクが来ていない時を狙って、一定速度で渡ると、
向こうの方で避けてくれる。下手に止まるとかえって危険である。
逆走しているバイクとかもあるので少し注意は必要。
街を歩いていて感じたのだが、カンボジア人は結構綺麗好きだと思う。
もちろん水道などインフラ全体の衛生状態は良いとは言えないのだが、
トイレはこまめに水をかけて洗ってあるし、
屋台を雑巾で磨いている人や店の前を掃き掃除している人をよく見かけた。
髪の毛もよく洗っているのか、あまりべとついた髪の人も見かけない
(カンボジア人はシャワー好きで一日何度もシャワーを浴びるそうだ)。
町にゴミもあまり落ちていない。これじゃイタリアのローマの方がゴミだらけのような…。
まずは、オリンピックマーケット→オルセーマーケット→セントラルマーケットと市場巡り。
雑貨、野菜、果物、海産物、服、布、美容院、アクセサリー、おもちゃ、飯屋、パン屋、
とにかくありとあらゆるものがある。セントラルマーケットなんか、
正規の市場の建物の周りに仮設市場みたいなのがぎっしり出来ていて、
なかなかメインの建物に辿りつけない。まさにカオスである。
腹が空いたら買い食いしながら歩く。宝石なんかを売っている店もあり、
カンボジア原産のルビーのいい石がないかと物色するが、
ちょっと慣れた人が見ればすぐに偽者とわかるバッタもんばかりだった。
その後、ワット・プノン(寺院)に参拝し、トレンサップ川の河畔で休憩。
その後は川沿いに歩いてカンボジア日本友好橋へ。このあたりで疲れたので帰ることにした。
バイクタクシーに乗らないかと言われたので、利用することにした。
2ドルと言われ、ボッてるなぁと思ったけど、
別のを探すのも面倒なのでそれにした(相場はまぁ、せいぜい1ドル)。
本当は日本人が甘く見られないように、毅然と対応した方がいいんだけどねぇ。
で、バイクの後ろに二人乗りしてホテルに戻ってきた。
晩はいつもの食堂へ。台湾ビール担当のお姉さんが毎日頑張って勧めてくるので、
根負けして注文してしまった。沢山飲んでくれる客と判断されたのか、
他のビールを頼まないように隣の席に陣取って、ついでくれたりする上に自分でも飲み始めた。
しかし言葉がわからないのでコミニュケーションが取り難い。
今度はクメール語を覚えてきた方がいいなぁ。
滞在中に今まで感じたことだが、カンボジアの対日感情はすこぶる良い。
UNTACで日本の自衛隊や警察官や民間人が活動したことも良い影響を与えているように思える。
現地の人は、日本のNGOが井戸を掘ったり小学校を作ったりしてることも良く知っていて、
感謝されたりもした。
個人的に感じたカンボジア人の特徴をあげると、
温和、穏やか、素朴、礼儀正しい、謙虚、勤勉、几帳面、綺麗好き、手先が器用、真面目、正直、という感じ。
何かを高く吹っかけるにしても、10ドルのものを12ドルと言ってみたりとか、かわいいものである。
しかも値段を言うときに目が泳ぐのですぐにバレてしまう。
一方で、のんびりしている、競争心が薄い、浮世離れした感じ、大人しい、自己主張が少ない、
ノリが悪い、遠慮しすぎ、すぐに妥協してしまう、現状に満足しがちである、目的意識が低い、
他人に影響され易い、などの傾向も何となく感じられる。
昔から豊かな農業国で、しかも河川からの漁業資源も豊富という恵まれた環境や、
国民の大半が敬虔な仏教徒というのも、国民性に影響しているのだろう。
あと、これは何となくだが、意外と根に持つ人が多いんじゃないかなという気もする。
もっとも、これらは限られた滞在期間に限られた人と会っただけの感想なので、
間違っている可能性も高いが。
しかし総じて見ると、性格的に日本人と似ている部分も多く、
日本との親和性はかなり高いのではないかと感じる。
官民双方で、もっと関係を深めても良いと思うし、
将来的には移民を受け入れても、文化的な衝突が少なくて済むような気もする。
ただ、最近は中国や韓国が積極的にカンボジアに進出してきており、
韓国語ブームが起きたりしているようで、日本の存在感の低下が心配される状況ではあるようだ。
2009年12月26日
カンボジアの歴史は悲惨というしかない。
タイとベトナムに好き放題にやられ、フランスの植民地になり、
ベトナム戦争にからんでアメリカの空爆を受ける。その後のポルポトの支配では、
知識人、技術者、教師、医者、役人などが根こそぎ虐殺されて社会基盤が崩壊し、
貨幣の廃止と私財没収で経済も崩壊、電話、郵便の廃止、バス、鉄道等の廃止、
家族の解体(子供を親と引き離して集団で育てる)、恋愛の禁止(決められた人との強制結婚)、
教育の廃止なども実行され、また、芸術家や僧侶が虐殺され寺院も破壊されて精神的な基盤も崩壊した。
その上、国土は地雷だらけになってしまった。
カンボジア人は穏やかで正直な人が多いのだが、話をしていると、明るく話していても、
どこかやはり陰があるというか、諦観というか、無力感のようなものを感じることがある。
町中でも40代くらいから上の人が極端に少ない。ポルポト時代の虐殺と出生率の低下の影響だと思われる。
ポルポトによる支配については、国全体のトラウマとなっているようで、
よほど付き合いのある人と話すとき以外は歴史的な話題は厳禁である。
教育、医療、建設、何をするにも人材が不足している状態で、
海外からの援助とボランティアがなければ全てが立ち行かない。
カンボジア人は援助やボランティアには非常に感謝しているが、
それらに頼らないと何も出来ない現実に、プライドは傷つけられ、
自信を喪失しているようにも感じる。
はやく自らの力で国家運営が成り立つようになって欲しいものである。
2009年12月25日
クリスマスだが、ホテルのロビーにクリスマスツリーが出ているくらいで、
特に街の様子は変わらず。
午前中は仕事で、午後は大学へ。今日の授業も特に問題なく終わった。
ホテルに戻ると、中国の要人が来ているようで、厳重な警備体制が敷かれていた。
一休みして、ホテル近くの一昨日と同じ食堂へ。
今日は牛肉鍋にした。野菜がたっぷりで豆腐も入れる(日本の豆腐と良く似た味)。
最後は麺で締めて満腹である。
食べ物に違和感が無いという点で、日本人にとっては住むには良いところだと思う
(まぁ、日本人の味覚も様々なので、あまり一般的なことは言えないかもしれないが)。
日本人に似ている綺麗でかわいいお姉ちゃんも多い。
やっぱり日本人は南方系の血が濃いんだろうなぁ。あと、穏やかな人が多い。
歴史的には複雑な経緯をたどっているので、みんな心の中では思うことはあるのかもしれないが…。
こっちで、コンピュータと日本語でも教えて、楽しく暮らすのも良いかもしれない。
まぁ、今は妻もいるし子供も出来たので無理だけどね。
2009年12月24日
午前中は仕事で、午後からプノンペン大学に移動。
移動は主にトゥクトゥクという、バイクの後ろに4人乗りの人力車みたいなのをつけた乗り物を利用。
市内ならどこでも5ドルから8ドル程度。
道路はバイクの多さが半端ではない。道路の中央線なんかどこにあるの?という感じ。
逆走当たり前。3人乗りくらいもあたりまえ。原チャに夫婦と子供3人で5人乗りしているのも見かけた。
どう見ても中学生くらいにしか見えない子供がバイクを走らせていたりする。
しかしこれだけカオス状態の交通事情にしては、凹んでいる車をほとんど見掛けない。
みんなゆっくり走っているのと、おっとりした国民性のためだと思う。
大学はかなり綺麗であった。大学だけでなく、プノンペンの街自体、それほど不衛生な感じはしない。
でもまぁ、机や椅子やホワイトボードなどは古いのを大事に使っているという感じである。
トイレは手動水洗、つまり、ドラム缶みたいなのに水が入っているので、
柄杓でその水をすくって便器に流すというシステムである。紙が無いので、
インド式に手で拭くのかと思ったが、実は柄杓でお尻に水をかけて洗浄するとのこと。
日本人はトイレットペーパーを1ロール持って行った方がいいね。
大学内のJICAの建物に寄ったら、こっちはさすがに日本と同じ水洗トイレだった。
授業は自分ともう一人の人が1時間半ずつやって終了。しかしコンピュータ関係の設備が酷い。
昔の56kbpsなんかより遥かに遅いネット回線に、今にも潰れそうなパソコンばかり。
実際、プログラムさせていても、一部のパソコンのみエラーが出たりフリーズしたりする。
学生はみな非常に真面目である。ただ、出来る子から出来ない子まで差が大きいね。
あわよくば良く出来る学生を日本にリクルートしたいところだが、
日本よりも旧宗主国のフランスに行きたい人が多いようだ。
カンボジアはポルポトの大虐殺で知識人がほとんど全滅してしまい、
国全体でも博士号を持っている人がほとんどいない状態で、
まともな教育がほとんど成立していないようだ。
一部の先生が全ての科目を広く浅く教え、さらに外国人のボランティアに頼っているとのこと。
ただ、ポルポト以前は学術や技術の水準も高かったようなので、今後の発展の可能性は高いと思う。
行きにも送ってもらったトゥクトゥクのお兄さんに迎えに来てもらって、
メコン河(正確にはトレンサップ河)に面したレストランへ。
アンコールビールを飲みながらカンボジア料理を腹一杯食べた。
タイ料理や中華料理を食べると、外国の料理を食べていると感じるが、
カンボジアの料理は日本人の味覚からしても不思議と違和感が無い。
味付けに魚醤が使われることが多いのだが、これが何となく醤油と味の方向性が似ている気がする。
あと、米がタイ米などの長粒米と違って日本米と同じ短粒米なので違和感が少ない。
ここは結構高級な店だったようで、一人15ドルくらいであった。
12月2日に仕掛けたクラックを仕切り。
酔っ払って指値を間違って値を滑らせてしまったが、+58000円。
まぁ、悪くはない。こちらの月収では3ヶ月分以上。
恐らく年内の売買はこれで終了だろう。
2009年12月23日
関空特急はるかで関西空港へ。出発の2時間前には着いたのに、キャセイのカウンターが長蛇の列で、
チェックインが終わったのが出発30分前であった。
家の引き出しから100ドル持ってきた以外はドルを全く持っていなかったので急いで両替した。
1ドル札を100枚ほど欲しかったのだが、20枚までと言われたので、
3ヶ所の両替所を回って1ドル札を60枚手に入れた。後は10ドル札と20ドル札で、
合計300ドルを持って行くことにした。
出発15分前に搭乗口まで辿りつき、なんとか搭乗時刻に間に合った。
まずは香港国際空港へ向かう。機内では「アマルフィ 女神の報酬」を観た。
いまいちだ。織田裕二の演技は相変わらず渋くて良いんだが、他の出演者はもうちょっと何とかならんのか。
子供を誘拐された母親とは思えない演技、テロリストとは思えない演技である。
香港国際空港で昼飯を食ってから、キャセイのラウンジの前のベンチで無線LANを拾ってネットに繋いだ。
その後、香港ドラゴン航空でプノンペンへ。空港に着いたのが5時くらい。
まずは入国ビザを取らねばならない。
通常ビザ25ドル、観光ビザ20ドルと書いてあり、何も言わなければ通常ビザになるようだったが、
観光ビザでと主張したら20ドルになった
(仕事で来ているので本当は通常ビザにしなければならないんだろうけど)。
日本から持ってきた写真を添えてパスポートと一緒に出すと問題なく発給された。
入国審査と税関を通り、外へ出た。
様子も良く分からないので、とりあえずタクシーに乗ってホテルへ向かった。
ホテルはインターコンチネンタルで、たぶんプノンペンで一番良いホテルである。
発展途上国に来たのは初めてだが、タクシーの窓から見るかぎり、なかなかの活気である。
バイクが多い。
ホテルにチェックイン。ホテルの人が荷物を持って部屋まで案内してくれたので、1ドルあげた。
それが適切な額なのかは良く分からないが、1ドルより細かいお金は持ってないので仕方が無い。
しばらく部屋でくつろいでから、
先にボランティアで来ている人とロビーで待ち合わせ、
ホテルの近所の食堂で飯を食ってビールを飲みながら打ち合わせをした。
自分の担当としては、Newton法で二変数の連立非線形方程式を解くのと、
台形則で微分方程式の初期値問題を解くのと、重積分をモンテカルロ法で求めること、
あたりをどのようにC言語でプログラムするかを教えることにした。
大学側としては、とりあえず授業が成立して学生が何か知識を身につけられれば、
教える内容は本当になんでも良いようだ。
この食堂はとても繁盛している。カンボジア料理は全般的に辛さが控えめなのが残念だが、
それでも結構美味しい。
ビールは独立採算制らしく、銘柄ごとにビール売りのお姉さんが食堂内を勧めて回っている。
現地のビールでアンコールビールというのがあって、なかなかの味である。
物価は極めて安い。物によるが、日本の5分の一から10分の一くらいである。
ここの食堂では、色々と腹一杯食べてビールをたらふく飲んでも、一人8ドルくらいにしかならない。
ホテルに戻って教材を作り、風呂に入って寝た。
2009年12月22日
夕方まで仕事をした後、カンボジア出張のためサンダーバードで大阪へ移動。
正式にはもちろん仕事があって行くのだが、
それに付随して、ボランティアでプノンペン大学でコンピュータについて教えることになった。
有望な学生がいれば卒業後にリクルートしたいという思惑もある。
カンボジアでは、特に理系分野で学生を教えられる人が極端に不足しており、
様々なつてで外国から専門知識のある人にボランティアに来てもらって、
教えてもらっているようだ。
先に日本人の方が2人行っていて、プノンペンで合流して一緒に教えることになっている。
今日は天王寺のネットカフェで20世紀少年を読んで寝た。
防毒マスクのセールスマンが出てきたとこまで読んだ。
2009年12月21日
今日は休日出勤の振替休日だったのだが、
すっかり忘れていて仕事の予定を入れてしまっていたので出勤した。
でもせっかくの休日が潰れるのは悲しいので、5時くらいには帰ってきた。
年賀状を書いた。出来るだけ少ない枚数で済ますようにしてるんだけど、
昔からの友人と、仕事でお世話になっている人に書いたら20枚くらいにはなってしまう。
妻が宛名書きをやってくれるので助かる。
2009年12月20日
村上春樹「1Q84」を読んだけど、いまいちだな。
文章が上手いのはわかるが、技巧があるのをいいことに、かなり適当に書かれた印象がある。
本作品と作中に出てくる本がオーバーラップすることで虚構と現実を融合させるという、
実験的な試みもなされているが、それもどちらかというと使い古された手法ではないだろうか。
ミヒャエル・エンデとかぶるような気もしてならないし。
本作はジョージ・オーウェルの「1984」を意識しているようで、
ビッグ・ブラザーに対応するものとしてリトルピープルという存在が出てくる。
たぶんこれは、管理社会の行き着く先の象徴としてのビッグブラザーに対し、
現代社会の究極としての人間意識の変性を表現しているような気がするが、
そういう社会的な比喩だとするなら表現が回りくどすぎる。
結局、著者自身が現代社会に対して感じているある種の違和感を、
突き詰めて考えることなく適当に誤魔化して書いただけという気がしてならない。
これに関連して、久しぶりにジョージ・オーウェルが読みたくなり、
本棚を探したが見つからないので(どこかにはある筈なんだが)、
本屋で「1984」と「動物農場」を買ってきた。さっそく読んだけど、
中学だったか高校だったかに読んだときほどの衝撃は感じなかったなぁ。
2009年12月19日
午前中は仕事で、午後は京都で古本屋を回ったり革靴を買ったりしてから金沢に戻ってきた。
2009年12月18日
今日も朝から出張先で仕事。晩は飲み。
同世代の仕事の関係の知り合いが亡くなられたという話を聞いた。
一度しか一緒に飲んだことはないけれど、活躍している人だっただけに残念である。
その後は久しぶりに奈良の実家へ顔を出した。
2009年12月17日
朝から仕事である。
晩は仕事の関係の人達と飲み会。
その後、大学時代によく行った銭湯に行った。
相変わらず大学生で繁盛していた。
金沢はすごい雪らしい。
2009年12月16日
子供手当てに所得制限を設けるべきだという意見が出ている。
所得制限を導入するということは、要するに貧乏人に資金援助するというのと同じことである。
そうではなくて、子供手当てというのは、少子化の流れを変えるという目的のために、
子供の養育には社会が一定の責任を持つべきであるという考えが根底にあって、
実施されるべきものではないのか。
そうであるならば所得制限をしようという発想は出てこないはずだ。
子供手当てがパチンコに使われるとか言ってる某国会議員がいるが、馬鹿としか言いようが無い。
そんなこと言ったら、
減税だって扶養控除だって生活保護だって剰余分がパチンコに使われるという論法になる。
それにしても、金融モラトリアム法案にしても今回の所得制限にしても、
感情的な理由で政治が行われる傾向については非常に危惧している。
何が正しいか正しくないかで政策は決定されるべきであり、
これが、可哀想か可哀想でないかという判断で政策が決まるようになると、
亡国への道を歩むことになる。
夕方から京都へ出張。
相場は12月7日に仕掛けた分を仕切り。+43000円。
ちまちま月に数万円の小遣いを稼ぐのは簡単なんだがなぁ。
2009年12月14日
結婚記念日でもあるし、妻がユッケと冷麺が食べたいというので、
近くの高い焼肉屋さんに行ったが、閉まっていたので、遠くの安い焼肉屋さんに行った。
それでも結構満足したようだ(ユッケは無かったけど)。
帰りには雪が降っていた。厳密には初雪ではないかもしれないけど、
自分が見た中では今年初めての雪であった。
2009年12月13日
午前中は車のワックスがけをした。かなりピカピカになった。あと、プラグも磨いた。
妻は午前中は大変そうだったが、午後から調子も良くなってきたので、
車でいつもの温泉へ出掛けた。
2009年12月12日
今日は、夫婦でデイトレーダーKKさんの家のクリスマスパーティーに参加する予定だったのだが、
朝から妻のつわりが辛くて、とても外出できるような様子では無かったので、
今回は一人で参加した。
梅酒が良い具合に浸かってきたのでブランデーのとウォッカのを持って行くことにした。
他の人の子供達を見ていると、みんな子育ての方針を良く考えてるものだと感心させられる。
最初は男連中と、女性+子供に分かれて飲み食いしていたが、そのうち子供は子供同士で遊び始め、
大人達で集まって歓談した。
こういう付き合いの形式は、デイトレーダーKKさんの人柄と資質によるもので、
株の世界で一般的というわけではないのかもしれないけど、
職場の人との付き合いのような普通の付き合いを相場仲間とするというのは非常に新鮮である。
商品の世界は、どちらかというと戦場の中での付き合いという感じで、
人間関係も、距離を置くか非常に濃い付き合いをするかのどちらかで、あまり中間というものが無い。
もちろん家族同士で会ったりすることもあるが、その場合でも当人同士の付き合いが濃すぎるため、
かえって例えば妻同士の交際が発展するようなことには、あまりならないような気がする。
妻の体調も心配なので、日が暮れたあたりで帰ってきた。
2009年12月11日
職場の人と、お互い妻を伴って会食した。妻同士、友達になれるんじゃないかと思って、
紹介する機会を作ったのである。
食事は東茶屋街近くのうどん屋さんで。
とても美味しかったので、金沢に来た人を連れて来たいものである。
その後、家にお邪魔して本の話をしたり、猫や犬と遊んだりした(猫が4匹、犬が一匹いる)。
妻同士も気が合いそうで良かった。
家に帰ったら、能登演劇堂でやっている「マクベス」が放送されていたので観た。
実は今まで筋を知らなかったのだが、意外にオチの無い話だな。
でも、演劇もなかなか面白いね。
2009年12月7日
妻が病院で検査してもらったところ、子供が出来たそうだ。
妻の体の調子がいつもと少し違っていて、何となく数日前からそんな感じがしていたので、
多分そうだろうと思っていたら、やっぱりであった。
病院で写真をもらって来たが、まだ豆粒のような袋がくっ付いているだけである。
予定日は順調に行けば8月上旬だそうだ。
名前を考えなくては。
クラックを増し玉。
2009年12月6日
今日は北陸の株関係の人達とマラソン練習&忘年会、の予定だったが、
雨のためマラソンは中止。昼前に集合場所のサウナに到着。入浴していたらみんなと会った。
入浴後は昼飯を食いつつビールを飲みつつ麻雀。
一人勝ちを出さないようにトップ抜けルールでやったので、勝ったけどそれほどでもない。
最近、大学時代のサークルに遊びに行って打つたびに、
社会人から金を巻き上げようと待ち構える貧乏学生たちにカモられてお小遣いをあげていたのだが、
このメンバーなら気楽に楽しく打てて良い。
麻雀の後は宴会である。なんか、延々と4時間くらい飲んでみんなで話をした。
その後さらに場所を移して12時くらいまで飲んで喋った。あっという間に時間が過ぎる。
明日は仕事なので、日付が変わったあたりで失礼して、家に帰ってきた。
せっかくなので走って帰ってきた(7割以上歩いていたけど)。
2009年12月5日
明日、株トレーダーの人達とマラソンの練習をしてから忘年会をやるのだが、
いきなり20Km走るのはしんどいので、前日に足慣らしすることにした。
市内から田上町、俵町、医王山スポーツセンターを経由し、山の裏の折谷町を周って湯涌温泉へ下りた。
走ろうと思ったけど、高低差が大きくて、7割方は歩いてしまった。
湯楽の湯に浸かってからバスで帰宅した。
2009年12月4日
今日は職場の忘年会である。駅前のホテルの宴会場で和食をいただく。
ビンゴで小さな箪笥が当たった。
その後はいつものお店へ。一緒に行った人が誕生日というので、
メイプルハウスのケーキを買ってきてお祝いした。三十路へようこそ。
お土産のドイツのチョコレートは、やはり唐辛子チョコレートはいまいちだった。
コーヒーチョコの方は美味しかったが。
2009年12月2日
仕事。
平山郁夫さんが亡くなられた。とても残念。
以前、佐川美術館で大唐西域画の下絵を見て、その線のあまりの迫力に感動して、
その足で奈良の薬師寺まで大唐西域画の実物を見に行ったことを思い出す。
クラックを試しに仕掛けてみた。
十分な動きがあるなら続けるが、以前と変わらず駄目そうなら撤退する。
2009年11月30日
会議など、仕事。
今までの常として、一旦あるプロジェクトに予算が付くと、
行政刷新会議の事業仕分けが話題になっている。
色々と問題点もあるのは事実だが、評価できる点も多いと思う。
今までの常として、一旦あるプロジェクトに予算が付くと、
不明瞭な独立行政法人や特殊法人がポコポコ作られて、そのプロジェクトが既に無意味になっても、
民意と関係無しに金が流れて行くシステムが出来上がっていた。
例の国営漫画喫茶(国立メディア芸術総合センター)にしても、あれだけの批判がありながら、
自民党政権下で建設は決定していたのだ(今回の仕分けで廃止になったが)。
官僚は新規のプロジェクトを提案して予算や天下り先を確保すれば業績と見なされて昇進に有利になる、
政治家はハコモノ建設に懇意の企業を参加させ、見返りに献金を受け取る、
この利権構造の輪によって、不透明で効率の悪いシステムが際限なく増殖していく。今回の事業仕分けで、
このような一度始まったら止まらない予算執行の問題点に切り込めたことは評価して良いと思う。
次世代スーパーコンピュータにしても、既に破綻している計画を見直しもしないのに、
当初と変わらない予算が付くという不透明な点が問題にされたわけで、
これを科学技術予算の削減だと異議を唱えるノーベル賞学者達の発言はピントがズレていると感じざるを得ない。
仕分けの目的とするところは、科学技術予算を画一的に削ることではなくて、
計画に問題が発生しているにも関わらず予算が付いたり、
天下り先の独立行政法人が中抜きをしているような不透明な運営実態を改善し、
必要な予算が効率的に現場に届くようにすることである。
これは実況などを聞いていればすぐにわかる筈なのだが、
マスコミ報道を鵜呑みにして仕分けの目的を履き違えている人が多過ぎるように思う。
マスコミ報道も酷すぎる。「2番じゃ駄目なのか」という蓮舫議員の発言が繰り返し報道されているが、
議論の流れを正確に追えば、世界1位を取ること自体が目的なのか?
結果的にもし2位になってしまったら無価値なのか?順位自体が問題なのではなく、
それをどう活用するかが重要なのではありませんか?その活用法を教えて下さい、と、
ごく当然の問いかけをしているだけである。
決して、世界2位でもいいから予算は少なくてもいいなんて言っていない。
しかしそれに対する文科省官僚の返答は、1位になることがとにかく重要なんです、
と繰り返すだけのお粗末なもの。
これでは世界1位を取ること自体が自己目的化していると評価されても仕方が無い。
実際そうなんだからそれ以外に返答のしようが無いんだろうけど
(実際、以前、富士通の人と話したけど、
ペタコン作ってもアプリケーションは無いだろうなぁと言っていた)。
事業仕分けは、蓮舫議員をはじめとする仕分け人がズバズバ切りまくっているように見えるが、
それは単なるショーであり、シナリオは既に決まっていたと見るのが妥当である。
国会の委員会質疑の内容を丹念に読むと、次世代スパコンにしてもSpring8にしても、
以前から民主党はその不明朗な計画や運営実態を問題にしていたことがわかる
(当時は自民党が多数派だったので、取り付くしまもない感じであったが)。
なんにせよ、今まで密室で決められていた予算の使い道が白日の元に晒され、
国民的な議論にまでなったというのは、かつて無かった透明性で、非常に画期的であると思う。
以上は良い点。もちろん悪い点も多い。まずは額の問題。
国家予算を全て精査しないといけないくらいの非常事態なのに、仕分けの対象になったのはごく一部のみ。
これではとても無駄の排除には繋がらない。特別会計にも踏み込む必要があるが、
これはさすがに、ミカンが沢山あると思って開けてみたら全部腐っていた、
なんて事態になっちゃうと、それこそ収拾がつかなくなるので仕方が無いか。
それと、財務省の影響力が強く出すぎているように思えることと、
ショーとしての側面ばかりが重視されると人民裁判になりかねないことである。
2009年11月29日
妻といつもの温泉へ行った。
なんか、ボーっと考え事しながら入っていたら、頭を洗うのを忘れていた。我ながら大丈夫かいな。
奈良県の纒向遺跡が話題になっている。おそらく邪馬台国の遺跡で間違いないと思われる。
そもそも、邪馬台国と大和国の読みがほとんど同じなのを素直に考えれば、
邪馬台国が大和政権の初期に位置すると考えるのは自然で、更に、
卑弥呼=天照大神=神功皇后と考えるのも自然だろう。
ただ、神武東征の伝説もあるので、北九州の邪馬台国が奈良に移動したという可能性もあるが。
何にせよ、今後の発掘が待たれるところである。
それにしても宮内庁は、あちこちの古墳について、
勝手に何々天皇陵と決め付けて発掘調査を禁止しているが、
そのような姿勢は改めるべきだと思う。調査の結果、予想外の事実が明らかになることも考えられるが、
今さらそれで天皇家の権威が下がるとも思えないのだが…。
宮内庁は、恐らく万世一系的な世界観が崩壊することを恐れているのだと思うが、
継体天皇からスタートしたと考えても天皇家の家系が世界の王家で一番古いというのは変わらない。
2009年11月28日
仕事のため休日出勤。うちの職場では休日出勤には手当てが出ない。その代わりに代休が取れる。
しかし、どうせ代休の日も出勤していることが多くて全然意味が無い。どうせなら金が欲しいもんだ。
2009年11月27日
富山へ出張。仕事の後は西町の和食のお店へ行き、その後は駅前のワインバーへ。
富山泊。
2009年11月26日
夕方早めに仕事を切り上げ、妻とデート。
まずは駅前の映画館で「ゼロの焦点」を観た。
中学生か高校生の頃に読んだんだけど、ほとんど筋は忘れてしまっていた。
津幡とか鶴来とか、石川のローカルな地名が出てくるので身近に感じる。
内容は、まぁ、男の身勝手なんだが、贔屓目に見れば気持ちも良くわかる。
しかし色々な意味でヘタレなのが全ての元凶だな。
ところで、こんな推理は普通は思いつかんだろ、って部分が多かったが、
この手の飛躍は松本清張の小説には付き物だったような気もする。
原作を読み返さないとわからないけど。
映画の後はエムザで買い物し、その後は片町へ。結婚一周年も近いし、
以前、まこりんさんに連れて行ってもらった中華料理屋さんで、妻にフカヒレの姿煮をご馳走した。
点心も美味しい。
2009年11月25日
朝から仕事。午後は会議。
2009年11月24日
一日中仕事。体の調子がいまいち。時差の違いで朝がキツい。
2009年11月23日
午前中で仕事は終了。飛行機の時間まで結構あるので、まずは函館駅の近くでウニ丼を食べた。
海鮮丼の店が大量にあるので、ぐるりと周って良さそうな店を探して入る。
新鮮でとても美味しかった。
ウニ丼といえば、大学生の頃に稚内で食べたウニ丼も美味かった思い出がある。
親の軽自動車を借り、京都から下道をドライブして日本海沿いに北上し、津軽海峡をフェリーで渡り、
函館、札幌、旭川と移動し、大雪山に登り、帯広、日勝峠を経由して札幌、小樽、余市と来て、
積丹半島のど真ん中で車が故障し、
最寄の公衆電話まで延々と歩いて近くの車屋さんに連絡して来てもらったものの、
お盆休みで部品が入らず修理に一週間かかると言われて、
それではと車を直している間に青春18切符を買って稚内まで行った時に食べたウニ丼であった。
積丹半島の昔から知っている宿に一泊した以外は全て、車中泊と野宿のみの貧乏旅行だったので、
3000円のウニ丼はかなり覚悟して払った記憶がある。ちなみにその後は利尻富士に登った。
さて、ウニ丼を食べた後は市電で末広町に向かい、実際に使用されている日本最古の電信柱を見学。
形は四角柱で、説明書きによると、現場打ちコンクリートで立てられたのだそうだ。
その付近にプティメルヴィーユという美味しそうな西洋菓子の店があったので、妻へお土産を購入。
そこからちょっとだけ歩き、北方歴史資料館に到着した(もともとここが目的であった)。
ここは、ゴローニン事件の解決に多大な貢献をした高田屋嘉兵衛を記念した博物館である。
当時の西洋人には、
日本人は狡猾でクリスチャンを迫害する野蛮な民族であるという風評が流布していたのだが、
ゴローニンが2年間あまりの抑留期間の経験を元に記した「日本幽囚記」で、日本人の勤勉さや聡明さ、
日本の文化や習慣、宗教や政治制度などを紹介し、
その著書が西洋でベストセラーになって広く読まれたことで、西洋の日本観が一変したと言われている
(ペリー提督も読んでいたらしい)。
囚われの身であるにも関わらず、あくまで中立的な視点から日本を観察したゴローニンと、
事件の解決に尽力した高田屋嘉兵衛、この二人のどちらかがいなければ、
幕末期の日本の運命はかなり異なっていたかもしれない。
彼はこう書いている。もし日本人がピョートル大帝ほどの君主をいだき、政策を変更して、
外国のものを受け入れ始めたなら、人口が多く聡明で、模倣が上手く、忍耐強く勤勉な、
この万事に長けた国民は、数年のうちに東洋の王者となるであろう、
日本は現在は外国のものを一切拒絶しているが、この国が今後政策を変えることも有り得ないことではない、と。
ピョートル大帝云々は別にしても、かなり先見の明があった人物であると言える。
「日本幽囚記」は日本語訳も出ているので、読んでみたいね。
資料が興味深くて時間が迫ってきたので、急いで函館駅に戻り、バスで函館空港に移動。
チェックインしてから「おんじき庭本」空港店で函館ラーメンを食べる。まぁ美味しいけど普通。
羽田空港から小松空港へ。小松空港からバスで市内へ戻ってきた。
2009年11月22日
仕事は午後からなので、早起きして市内観光に出かけた。
まずは五稜郭へ。城としては極めてチャチである。こんな所に立て篭もったら負けるのが当然だなぁ。
五稜郭の近くで北洋資料館という看板が目に入ったので行ってみた。
入場料が100円と格安なわりに、やけに内容が充実している。
入り口付近のシロクマとトドの剥製を見るだけでも価値がある。
内容の半分くらいは日魯漁業(現ニチロマルハ)の歴史を展示したもので、
日本人の若者二人がアムール川の下流で出会い、意気投合して船一つから水産業を立ち上げるという、
いかにもわくわくする話である。
昔の旅券や漁業権の許可証など、各種の書類も展示されていて非常に興味深かった。
他にも、北洋漁業の歴史全般や、現在の漁業に関する展示もあって面白い。
昼頃に出張先に行き、夕方まで仕事をした。晩はみんなで美味しいと評判の回転寿司へ。
一緒に行った人の中に、寿司は好きでカウンターの寿司屋には良く行くが、
回転寿司は生まれて初めてという人がいた。
お茶はどうやって入れるのか?とか、会計のときは皿をレジに持って行くのか?とか聞いていた。
2009年11月21日
今日から函館出張。朝6時に起きて職場に行き、出張準備を整えて小松空港へ移動。
羽田で乗り継いで函館空港へ。東京に泊まれば良かったのかもしれないが、
出張準備があるのでそうも行かず。それに家で寝るのが一番疲れが取れる。
日が暮れた頃に函館空港に到着。市内までバスで移動しようと思ったが、
一緒に出張に来ている人に是非タクシーで行こうと言われたので、タクシーで移動。
ホテルにチェックインした後、懐石料理の店に行った。二次会は居酒屋へ。
雪が降って地面が凍結しているので、滑らないように気をつけてホテルに戻った。
2009年11月20日
夕方に成田空港に到着。電車で羽田空港に移動し、飛行機で小松空港へ。
そこからバスで金沢市内へ。
やっとのことで家に帰ってきた。
明日から函館に出張である。
ちょっと疲れが溜まってきた。
2009年11月19日
午前中で仕事は終了。バスで鉄道の駅へ移動。時間までしばらくあったので、
雑貨屋さんでお土産として、ウィンターベリーの香りのローソク、陶器の小箱、栓抜きなどを購入。
あとパン屋さんで昼飯用のパンを購入。
電車に乗り、2時間ほどでマインツに到着。土産物を物色するために途中下車した。
関係無いが、街中に結構アルファロメオが走っていて嬉しい。
それにしても、ドイツはもうクリスマスシーズンのようである、
どこのお店もツリーのデコレーション用品やらロウソクやらお皿やらベルやら何やらと、
クリスマス商品が満載。ヨーロッパも、クリスマスに来ればまた楽しいだろうなぁ。
結局、台所用品の店で、ゆで卵に綺麗にヒビを入れる道具
(日本には無いので、日本語で表現しようがない)を買い、雑貨屋さんでトナカイ模様の箱を買い、
自然食品の店で、コーヒーチョコレートとチョコチップクッキーを購入した。
ふと目に入ったので、唐辛子チョコレートも怖いもの見たさで買ってしまった。
買い物も終わったので、マインツからフランクフルト空港へ電車で移動。
途中で寝てしまい、起きたらどこか田舎の風景の中を走っていた。
こりゃ乗り過ごしたか?と思ったが、車内にスーツケースを持った人が何人かいたのでほっとした。
しばらくすると空港に到着。
少し早く着いたので、カフェでパスタを食べながらビールを飲んで時間をつぶした。
そうこうするうちに搭乗時刻になり、機内に乗り込んだ。
それにしても、回数が多いから慣れているだけかもしれないが、
他の外国だと少し緊張するけどドイツに来るとホッとする。
知り合いの人(日本人)が、オーストリアからドイツへの飛行機が雪で止まり、
電車でドイツに向かったものの、その電車も途中で止まって別の電車に乗り換えさせられたりするなど、
トラブル続きだったのが、
国境を越えてドイツに入った瞬間に肩の荷が降りたようにホッとしたと言っていた
(まだEUができる前の話)。何となくわかる気もする。
ドイツは多分、来年も仕事で行く可能性が高いと思う。
帰りの飛行機はガラ空きだったので、3列シートの肘置きを全部上げて普通に横になって寝ていた。
非常に快適。
映画は4本観た。まずは「火天の城」。これはくだらなさ過ぎる。思わず最後の方は寝てしまった。
原作はどうなのか知らないけど、現代の常識とか習慣なんかをそのまま戦国時代に持ち込んでいるので、
違和感がありまくりで興醒めすること甚だしい。有り得ん、という言葉が頭の中に何度浮かんだことか。
最低限の時代考証くらいやってくれ。
次に観たのはハリーポッターの最新作。これは微妙だなぁ。なんか話がどんどんと陰鬱になって行く。
人間関係もどんどんすれ違いが重なって、ほんとにスッキリしない。
どういう感じで収束させるつもりなのか逆に興味があるね。
次は「Mr.ビーン、カンヌで大迷惑」。いやぁ、ミスタービーンはいつも面白いね。
フランス人とイギリス人の感性の違いも感じられて興味深い。
最後は「私のなかのあなた」。これはとても良かった。
重い病気を患っている姉に腎臓を提供するように母親に強制されそうになった妹が、
臓器提供を拒否し、母親を相手に裁判を起こす。
考えさせられるが、殺伐とした話だなぁと、複雑な思いで観ていると、
最後にかけて驚きの真実が明らかになる。ちょっと涙無くしては観られない話である。
2009年11月18日
午前中は仕事。午後からみんなで観光ツアーに出かけた。
目的地はトリアーである。バスで1時間ほどのところにある。
この町はアウグストゥスによって建設された町(実際に建設したのはローマ軍とゲルマン人)で、
ゲルマニアで最初のローマ軍の駐屯地である。つまりドイツで一番古い町ということになる。
後の帝国四分割時代には、西ローマの副帝コンスタンティヌスが拠点とした町でもある。
実際に現地に着いてみると比較的こじんまりした町である。
まずはポルタ・ニグラという大きな門から散策を始める。
ガイドの人が、この門はセメントを使ってないにも関わらず頑丈で、地震にもびくともせず、
第二次大戦中の爆撃でも平気だったと言って、その理由を説明していたがあまり聞き取れなかった。
門を良く見ると、砂岩っぽい岩を表面に凹凸を付けて噛み合わせてあるように見える。
そこから古い町並みを通って大聖堂へ。コンスタンティヌス帝が建てたドイツ最古の教会だそうだ。
教会の外壁にアダムとイブの像があり、ガイドの人が、人間にはあるけど、
あの像には無いものがあります、なんでしょう?とクイズを出していた。答えは、おへそ。
その後は、聖母聖堂を見学し、皇帝浴場跡へ。
この浴場跡は素晴らしかった。建物は崩壊して今は無いが、地下の通路などを歩き回ることができる。
古代ローマ人が同じ通路を行ったり来たりしていたかと思うと感慨深いものがある。
もっとゆっくり見学したかったのだが、集合時間が迫っているので後ろ髪引かれる思いで門の所へ戻った。
その後はバスで、近くのモーゼルワインの酒蔵でワインを試飲した。
一般的にどう表現するものなのかわからないが、切れのある味わいで特に白ワインが大変美味しかった。
一杯ずつ色んな銘柄を飲んでいたら最後には結構酔いが回ってしまった。
夜遅くに宿に到着。遅い夕食をとり、すぐに寝た。
2009年11月17日
概ね昨日と同じような状況。一日中仕事で全く外に出ていない。
とはいっても、ずっと雨が降っているのであまり外出したい気分にもならないが。
食事の時にウィーン大学出身の人と席が一緒だったので、色々と大学の話を聞くことができた
(最初、ヴィエナ大学と言っていたので、どこだろうと後で調べたらウィーン大学であった)。
ウィーン大学は、世界各国から学生が来ていて非常に国際色豊かなのだそうだ。
ヨーロッパが一番多いのだが、最近は中国人留学生が目立つとのこと。日本人も多いらしい。
特に入学試験などはなく、誰でも入れるが、単位認定は非常に厳しく、
ほとんどの人が途中で退学してしまうそうだ。卒業できるのは20%くらいだとか。
入学したら遊んでいても卒業できてしまう日本の大学とはえらい違いである。
どちらのシステムが国にとって良いかは明白だろう。
2009年11月16日
いつものごとく朝4時に目が覚め、とりあえず仕事をする。
結構寒い。しかしこっちの人に聞くと、昨日からかなり暖かくなったとのこと。
午前中は仕事、午後も仕事、晩飯を食った後も仕事。その後はみんなでビール飲み、9時に就寝。
話をしていて思うんだが、やはりドイツ人は日本人と似ている部分があるような気がする。
もちろん欧米人らしく自己主張が強い所は日本人とは違うのだが、まくし立てるのではなく、
冷静に論理立てて話をしようとするし、
じっと見つめられると思わず視線を外してしまうような内気なところも似ている気がする。
フランス人の容赦ない弁舌に押しまくられると分が悪い感じだ。
2009年11月15日
時差のせいで朝4時に目が覚め、3時間ほど仕事をした。
今回の出張の目的地は、ドイツ南西部の街ザールブリュッケンである。フランスとの国境付近にある。
今日は移動日なので、2時頃まではマインツを歩き回ることができる。
とは言っても、見所とかは何も調べてきてない。
朝食をたっぷりと食べ、チェックアウト。まずは近くのライン河に向けて歩いてみた。
しばらく歩いただけで、すっかりこの街が気に入ってしまった。
石畳を基調とした歴史を感じさせる町並みとライン河のゆったりした眺めが心を落ち着かせてくれる。
しばらくライン河沿いに散歩し、街の中に入る。すると大勢の人が同じ方向に向けて歩いている。
何があるのだろうかと一緒に歩いて行くと、みんな大きな教会に入っていく。
どうやら日曜のミサのようなので、見学することにした。
後から知り合いのドイツ人に聞いたところ、自分が偶然出席したのは、
マインツ大聖堂の1000周年を記念した一連のミサの一つだそうだ。
どうりで、広い大聖堂の中が人で一杯であった。
席は全部埋まっていて、立ち見の人でごった返している。
テレビカメラも入っている。
子供達による聖歌隊、続いて街の有力者?、あと牧師さん達がぞろぞろと入場、
最後に教団の偉い人(司教さん?)が10人ほど入場してきた。周りの人がさかんに十字を切っている。
一時間ほどしてようやくミサが始まった。
一番偉い司教さんによる説教と参加者全員による賛美歌斉唱が交互に入り、最後の方で、
たぶん、周りの人と握手しましょう、という説教があったのか、
周りの人が握手し始めたので自分も参加した。
聖歌隊の子供達が袋を持って寄付を集めに周ってきたので小銭を入れた。
ほとんどの人がお金を入れている。
ドイツ語は分からないが、厳粛な雰囲気だけは感じることができた。
それにしてもキリスト教の舞台装置というのは良く出来ていると思う。歴史の重みを感じさせる大聖堂、
美しいステンドガラス、パイプオルガンの荘厳な響き、司教さんの威厳のある説教、
それに全員で賛美歌を斉唱することによる一体感、そういうのが全てないまぜになって、
なにか魂が清らかになったような感覚が呼び覚まされるのである。
で、その雰囲気で自然と教会に寄付をしてしまう。
ご利益と引き換えに賽銭を集める日本の寺社のシステムとはかなり異なっているね。
ミサが終わり、そのまま街をウロウロするが、日曜だからか店がほとんど閉まっている。
お土産を買うのにちょうど良さそうな店が何軒かあったのだが、
閉まっているものは仕方が無いので、帰りに寄ることにした。
そのまま駅に行き、券売機で切符を買い、乗車した。
ドイツもヨーロッパ一般の、改札が無いかわりに検札がほぼ確実に回ってきて、
無賃乗車は高額の罰金を取られるシステムである。
車内でパソコンを広げて仕事をしていたら2時間ほどで到着。
駅からはバスで目的地へ移動する予定であったが、
車内で偶然、同じ目的地に行く同じ業界の人と会ったので、一緒にタクシーで移動することにした。
これから何日か缶詰状態で仕事をすることになる。宿舎も用意されている。
宿に着き、軽く晩飯を食べてみんなでビールを飲んだ。9時頃には眠くなり、就寝。
2009年11月14日
朝5時半に起きて出発準備。全然準備してない。
とりあえず妻が用意してくれた着替えを鞄に詰める。
引き出しに、なぜかユーロ紙幣が1500ユーロくらいあったので、800ユーロほど財布に入れた。
あんまり記憶が無いが、前々回にドイツに行ったときに多めに両替して余り、
更に前回ドイツに行ったときに持って行くのを忘れて、
更に現地で両替して余ったのを持って帰ってきたのだろう。
金沢駅からバスで小松空港へ。風の影響で離陸が30分以上遅れ、さらに、
羽田空港が混雑しているということで伊豆大島の上空で1時間近く待機となった。
やっとのことで羽田空港に着陸したのだが、
成田発のフランクフルト行きの出発時刻まで1時間ちょっとしか時間がなくなってしまった。
地上係員の方に、どうしたらいいんですか、と聞くと、成田空港には連絡しておきますから、
リムジンバスで急いで向かいましょうと、バス乗り場まで案内してくれた。
これ、もしあと1時間遅れていたらどうなったんだろう?
成田−羽田間の不便さはどうにかならんもんかねぇ。
成田空港には出発の20分前くらいに到着。
エコノミーチケットだけど、ビジネスクラスに乗せてもらえることになった。
関係者専用のセキュリティーチェックを通り、出国審査へ。
買い物をする時間も無く搭乗した。
ビジネスは初めて乗ったけど快適だねぇ。
座席は広くて、トイレに行くにも隣の人を気にしなくていいし、
リクライニングは水平まで倒れるし、テレビ画面は大きいし、ワインは飲み放題だし、食事もいいし。
出張ではエコノミーしか使えないけど、個人旅行ならたまには使ってもいい気もするね。
いつか、相場で儲けて、みんなでビジネスクラスで海外オフにでも繰り出したいものである。
基本的に、ずっとパソコンを広げて仕事をしていたのだが、映画も何本か観た。
まず観たのが「サマーウォーズ」。うーむ、よくこんなくだらん映画を作ったものだ。
古き良き大家族像と萌えを適当にミックスしておけばウケるだろう、
的な意図が見え過ぎていて醒める。さらに、ネット社会なんてこんなもんだろ、
という安易な発想がもう致命的だ。
だいたい、侵入者とバトルモードで対戦するという時点でおかしい。
OZのルールに則った上での末端レベルのクラッキングなら、
管理者がいくらでもアカウント削除とかで対応できるだろうし、
管理者権限まで奪うほどなら、わざわざバトルモードにしたりしなくても好き放題できる筈。
まぁ、そんなことを言ってしまうと話が成り立たなくなってしまうが。
もう一本は「俺たちに明日はない」。これは刹那的で良かったなぁ。名作と言われるのもわかる気がする。
実話だそうだね。
14時間ほどでフランクフルト空港に到着。5時なのにもう外は暗くなっている。
出国審査を済ませ、鉄道駅へ。
駅の券売機で切符を買う。ドイツに最初に来たときは操作がわからなくて苦労したが、
今は慣れているので問題は無い。今晩はマインツに泊まることになっている。
時刻表を見ると、電車が来るまで少しあったので、駅のベンチでパソコンを広げて仕事をした。
電車に乗り、30分ほどでマインツに到着。Googleマップを印刷してきた地図によると、
ホテルはKaiserStrasse(直訳すると皇帝通り)の端の方にあるようだ。
駅の売店で買ったピザを食べながら、とりあえず正しそうな方向に歩く。
なんだか地図とは道路の曲がり具合が違うような気がするのだが、
進めばわかるだろうとひたすら歩くと、どんどん坂になり、坂の最後に小さな凱旋門のような門があった。
門を抜けると家が少なくなって人気が無くなってきた。
これは絶対に間違っていると思い、途中まで引き返すと、観光地図を発見。
実は90度違った方向に来ていることがわかったので、正しい方向に向けて裏通りを歩く。
ドイツでは、夜中に人気の無い裏通りを歩いても危険を感じたことはない。
治安は極めて良好である。
しばらく行くと大通りに出た。KaiserStrasseの標識もあったので一安心である。
通りを突き当り付近まで行ったところで予約したホテルを見つけた。
少し古いが、落ち着いた内装の広い部屋のなかなか良いホテルであった。
値段もそんなに高くなかったし、また来たときも利用したいね。
ヨーロッパでは、星の数とか値段とかはあまり当てにならないような気がする。
三ツ星で安いホテルでも非常に満足度の高いところも多かった。
バスタブにお湯を貯め、ゆっくり浸かって疲れを取り、
Mini Barのビールを飲んだらすぐに酔いが回ってきた。
こちらの時間では21時だが、日本時間は既に午前5時。すぐに心地良い眠気に襲われた。
2009年11月13日
職場にお客さんが来たので、いつもの加賀料理のお店へ。
明日は朝早いので、いつものママさんのお店へは行かずに帰ってきた。
2009年11月12日
午後から会議。その後、晩まで仕事。
なんか最近、疲れが取れない。
金10月限を3244円で仕切り。残玉は無し。
2009年11月11日
朝から晩まで仕事、あと夕方には会議も。
ようやく、やらなきゃならない3つの仕事のうち一つが終わった。もう一つも明日には何とかなるだろう。
残りの一つは飛行機の中で片付けてドイツからメールで送るしかない。
現在使っている冷蔵庫は独身時代からのもので容量が小さいので、新しいのが欲しいと妻が言っている。
それで色々と各社の製品を見ていたのだが、ナノフェライト除菌なるものが目に入った。
なんでも、強磁性体フェライトを不織布に付着させ、
空気を通すことにより、空気中のウィルスや微生物を誘導起電力で死滅させるのだそうだ。
原理が全く理解できない。似たようなものとして、
ピップエレキバンを貼るとファラデーの法則により血液に電流が流れる、というのは理解できなくもないが、
それは血液が電気を通すからであって、
空気中の微生物にどうやって電流が流れるのかは極めて疑問である。
誘導起電力は磁束密度の変化率に比例するので、
磁性体を付着した程度では空気放電するほどの電圧は発生するはずもないし、
スケールと磁力から考えて細胞内に細胞を殺せるほどの電位差が発生することも無いだろう。
自分のスタンスとして、原理の理解できないものは買わないということで、
ナノフェライト除菌とか書いてるのは候補から除外することにした。
2009年11月10日
深夜まで仕事。帰宅してからこの日記の溜まっていた分を書いた。
2009年11月9日
明日必要な解説資料を作っていたら深夜になってしまった。
もともと1時間くらいで簡単なのを作るつもりだったのだが、ついつい力が入って大作になってしまった。
帰宅してから明け方まで仕事。
2009年11月8日
今日も家で一日中仕事。色々と間に合うか微妙な状況。
先週、若者達と飲んだときに、美味い串焼き屋さんの情報を聞いたので、妻と行ってみた。
行こうと思って行かないと絶対にわからないような場所にあった。
なかなか美味い。家からもそんなに遠くないのでまた行ってみることにしよう。
2009年11月7日
家で一日中仕事。来週のドイツ出張の準備など。
2009年11月6日
今日も会議。その後、晩まで仕事。
2009年11月5日
夜遅くまで会議。職場にも色々と課題は山積しているが、あまりゆったりもしてられない現状である。
2009年11月4日
深夜まで仕事。
金が上げている。どこまで行くのかねぇ。
とりあえず金8月限を3165円で仕切り。
残玉は金10月限1枚買い。
2009年11月3日
車を動かしたが、今日はエンジンがかなりご機嫌斜めであった。
でもしばらく走らせていたら調子が良くなった。
妻といつもの温泉に行ってきた。
新しい自転車を購入。金沢は湿気が多いので、3年くらい乗っている今までの自転車は既にサビサビで、
しかも油を注しても頻繁にチェーンが外れるし、駆動部の錆によりペダルがどんどん重くなってしまっていて、
挙句の果てにパンクしたので、さすがにお払い箱にすることにした。
ホームセンターに行ったら1万円以下で6段変速のママチャリが売っていたので購入した。
ペダルも嘘のように軽くて快適である。しかもこの安さ。
技術の進歩を実感する。もしくは単に過当競争でデフレ化しているだけなのかもしれないが。
2009年11月2日
今月中旬までにメインの仕事とは別に仕上げなくてはならない仕事が3つほどある。
英語読み&書き、英語書き、日本語書き、の3つである。
しかし英語書きも、Googleで似た文例を探してきて参考にしているようでは駄目だよなぁ。
時間を見つけて文法からきっちり勉強し直したいものだが、
他に優先順位の高いことがいくらでもあるので難しい。
会議、その後、深夜まで仕事。
2009年11月1日
日曜日だが、仕事があり出勤。
晩は休日出勤している若者達を連れて飲みに出かけた。妻も呼んで一緒に飲んだ。
自分の直属ではない人もいるので、全部は奢らず、みんなに少しずつ出してもらって残りを自分が払う形に。
誰々は奢ってくれるけど誰々は奢ってくれない、みたいな話になるとあんまり良くないので気を使う。
しかし、若い人の率直な意見を聞くのにこういう機会は重要だね。
2009年10月31日
特に何もせずゆっくり過ごす。
今日も良い天気。ここ数週間、良い天気が続いている。
金沢では非常に珍しいことである。職場の人が、何年か前に金沢に大雪が降った年も、
この時期には珍しく良い天気が続いていた、今年の冬は嫌な予感がする、と言っていた。
寒くなるなら灯油の期近は買いなのだが。
2009年10月30日
お客様は無事に帰られた。
特に粗相は無かったように思うが、ほっとして、ちょっと気が抜けてしまった。
晩は片町のいつもの店のママさんと女の子と同伴で、ちゃんこのお店へ。
同伴といっても、妻と、職場の人も一緒で、総勢5人である。
ちゃんこを一鍋、梅山豚のしゃぶしゃぶ一鍋を、みんなで食べた。
いや〜、美味いものばかり食ってて罰が当たりそうだわ。
その後はみんなで出勤。今月の飲み代は結構きてるなぁ。
金6月限を3085円で仕切り。残玉は、金8月限1枚買い、金10月限1枚買い。
2009年10月29日
昼間は仕事、会議など。晩はいつものイタリアンへ。
カマスの香草焼きと、アワビを焼いてバジルソースを合わせたやつがやけに美味かった。
やっぱり秋は美味いもんが多いね。
その後は片町のいつものお店へ。今日は飯食ったら帰る予定だったけど、成り行き上、そういうことに。
大袈裟に言えば人生の岐路に立っているのかもしれない。
その選択によっては、今後どれくらい金沢に住むのかが変わってくる可能性もある。
しかし、人間の人生に岐路なんてのは実際には無くて、どちらを選ぶかはたぶん最初から決定している。
久しぶりに売買した。金10月限を3006円で1枚買い。
残玉は、金6月限1枚買い、金8月限1枚買い、金10月限1枚買い。
2009年10月28日
昼間は仕事。晩は柿ノ木畠の居酒屋へ。
その後は片町のいつものお店へ。
2009年10月27日
昼間は仕事。
今日から木曜日まで、出張に来られているお客様と毎晩飲みに行く予定になっている。
今日はいつも行っている加賀料理のお店へ。
蟹はまだ解禁じゃないけれど、偶然網にかかった(ということに建前上なっている)
のを独自ルートで手に入れたものを出してくれた。その後は今日は大人しく帰宅。
計画的に飲まないと体がもたないので。
2009年10月26日
仕事、会議など。
明日から職場に大切なお客様が出張で来られるので、
その間に使っていただく部屋を雑巾とモップでピカピカに掃除した。
既に掃除はされているんだけど、念には念を入れてということである。
隅々まで埃一つなく掃除するというのは、昔、骨董品屋で働いていたときに厳しく指導されて以来だ。
2009年10月25日
仕事に関係したある問題の解決策について、色々と考えているうちに一日が終わってしまった。
相場の分析が全然進まない。
2009年10月24日
久々の休みなのに、何だかダラダラしているうちに一日が終わってしまった。
2009年10月23日
会議など色々。そういえば昨日も会議、来週も再来週も会議のオンパレードである。
出張に来ている人と、いつものイタリアンへ。ホウボウの香草焼きがなかなか美味。
その後は片町のいつもの店へ。
2009年10月22日
2010年度の国家予算の概算要求が出揃った。
予算規模は95兆円を超えるが、税収が40兆円を切る可能性が高いことを考えると、
下手すると新規国債発行額は50兆円を超える恐れもある。
既発債の償還に10兆円ほど使われるが、それを考慮したとしても、
債務の増加が税収より多いという異常事態となる。
こんなことが未来永劫続くわけもなく、
そう遠くない未来に金利が急騰して国債発行が事実上不可能になり、
通貨価値が下落して破綻に至ることになるだろう。
しかし国家財政が破綻したところで、今まで歴史上何度もあったように、
個人資産と相殺されてしまえば大したことはないし、それで日本経済が潰れるわけではない。
いささか危険な考えではあるが、クラッシュして清算されてしまった後の方が経済にも活気が出るかもしれない。
そうなったら一からまた頑張れば良いだけである。
そんなことよりも注視しなければならないのは、
なぜ、税収と同規模以上の国債を発行しないと国家財政が成り立たないような状態になってしまったのか、
ということである。無駄な予算もあるだろうし、
上から下まで張り巡らされた利権構造によって表から裏へ、かなりの金が流れているというのも事実だろう。
しかし、現在のこのような事態には、もっと根本的な原因として、
世界的に進行しつつある社会構造の変化があるのではないかとも考えている。
世界中で、農業は集約化され、製造業は効率化され、ネットの発達で中間業者も淘汰され、
今や、世界で消費される富を生産するには人が余り過ぎているのである。
例えば思考実験として、あらゆる富の生産が効率化され、
生産や流通にほとんど人が必要でなくなった社会を考えてみよう。
そうなると、大部分の人は失業するので収入が無くなる。
収入が無いと物が買えないので、需要も無くなる。需要が無くなれば、生産や流通も縮小していき、
スパイラル的にゼロに向かうことになる。もちろん税収も減っていく。
今までは、一つの産業が衰退しても別の産業が盛んになってきたので雇用は減少しなかった。
しかし、ここ何十年かの間に新しく発生した産業は、金融関連やネット関連など、
労働力のあまり要らないものがほとんどである。
たぶん今後、新しく発生する産業もますます人手が要らないものになって行くだろう。
そういう意味では、今の時代というのは歴史的な転換期にあたるのかもしれない。
効率化自体は悪いことではないと思う。楽して富が生産できる社会になれば、
全ての人が少ない労働で豊かな生活を送ることが(理論的には)可能だからである。
しかしそれには、資本主義に代わる、何か別の、金を循環させる仕組みを考え出さねばならない。
日本が現状の資本主義のままで延命を図るには、とりあえずは内需の拡大で産業を振興するしかない。
要は効率化のできない産業を増やせば良いのである。
サービス業は、流通や小売などは効率化が可能だが、介護とか観光ガイドとか
(ある程度のレベル以上の)美味いものを食わせる店とかの対人サービスは効率化にも限界があるので、
そういう産業を振興することには意味がある。
健康志向の付加価値のある農業や畜産なんかもいいだろう。
制度として、わざと非効率さを導入するということも考えられる。
例えば首都機能の移転である。日本中あちこちに機能が分散すれば非効率だが、
それに伴って地方経済も活性化されるだろう。
江戸時代の参勤交代などは無駄の権化みたいなものだが、
それにより地方経済の発展に寄与したと言われている。
環境関連のビジネスもいいと思う。
夏や冬には長い休みを取って田舎で暮らすようなライフスタイルが広まれば、
内需も色々と喚起されると思うんだけどね。
2009年10月21日
クレジットカードの会社から電話があり、カード番号が漏れていて不正使用された形跡があるので、
今のカードを無効にして新しいカードを送ると連絡が入った。
不正使用されたのは先月の半ば頃らしい。という事は、海外で漏れたわけではない。
どこで漏れたんだろうか? カード番号には規則性があるから、そこから割り出された可能性もあるな。
そもそも、カード番号の規則性も問題だが、
カード番号と有効期限だけで物が買える機会があるというのがおかしい。
暗証番号のチェックくらいは義務付けるべきだろう。
2009年10月20日
今日が締め切りの仕事が一件あったが、何とかギリギリに終わらせた。
仕事に追われる日々が続く。
2009年10月19日
職場の健康診断があった。去年の体重は一昨年に比べて4Kg減っていたが、
今年はまた一昨年の体重に戻っていた。というか、去年、何か痩せるようなことやったかなぁ。
思い出せない。
2009年10月18日
久しぶりに愛車でドライブ。今日のエンジンは好調だった。
金沢大学の裏から医王ダムを経由して富山の福光に抜けてみた。
このルートは以前も一度、行こうとしたことがあるのだが、行けば行くほど道が狭くなるので、
そのときは引き返したのである。
今回は意を決して進んでみると、途中、車がすれ違えない幅の道路が続くものの、
何とか富山側に出ることができた。対向車の多そうな時にはあまり通りたくない道路である。
福光の道の駅でカキフライを食べ、蕎麦かりんとうを買って帰って来た。
帰路は国道304号を北陸道に沿うような感じで走った。福光や南砺には良さそうな温泉が結構あるのだが、
このあたりに来るなら医王山を越えるより国道304号の方が断然走り易いと思う。
でも小回りの利く軽自動車だったら山越えの方がいいかな。
それより高速道路で福光まで来るのが手っ取り早いが。
2009年10月17日
今日は職場の親睦会のハイキングに参加。
妻も参加する予定だったが、妻の身内に不幸があり、実家に帰っているので一人で参加した。
秋晴れの良い天気である。市内から歩いて犀川温泉郷へ。途中、雨が降ってきて、
温泉のマイクロバスで運んでもらえるように手配したり、実行委員の人は色々と大変そうであった。
休憩ポイントで雨宿りしていたらじきに晴れたので、結局、ハイキングは続行。
三々五々、温泉に浸かった後、大広間で宴会となった。
そのまま泊まってしまいたいところだが、そうも行かずマイクロバスに送られて帰ってきた。
晩はまた雨になっていた。
2009年10月16日
一日、仕事で終了。
楡周平「猛禽の宴」を読んだ。「Cの福音」の続編だが、出来はこちらの方がいいと思う。
でも、読んでいて面白く、一気に読んでしまうんだけど、後から振り返ると余り深みを感じないんだよねぇ。
この人の小説は、漫画にして絵で表現することで深みを付けるといいかもしれない。
2009年10月15日
今日は北陸株式相場師の定例会である。
仕事が終わってダッシュで家に帰り、着替えて駅前へ。
なんだか株式は調子の悪い人が多いようで大変そうである。
専業で何年もの間、毎月資金の高値を更新するのが当たり前だった人が、
最近調子が悪いとぼやいていた。
まぁ、何年もの間、毎月資金の高値を更新し続けたということ自体が驚異的で、
普通なら有り得ない話だと思うけどね。でもまぁ、調子の良い時はそんなもんかもしれない。
自分も、2004年の終わりから2006年の半ばまでは毎月資金が増えるのが当たり前だったし。
一つ話題になったのは、システムトレードや自動売買の普及によって、
相場の動きは昔に比べてランダム化してきているのではないか? ということ。
個人的には、短期売買にはその傾向があるかもしれないけど、
中期売買や長期売買にはまだ取り代が残ってるんじゃないかなと思う。
短期売買でも、商品市場や個別株の一部のように、
銘柄固有の要因が強くてシステム化し難いようなものなら、まだ取れる余地が残っているだろう。
でも、為替や225先物のデイトレ、こういうのは真っ先に駄目になって行くだろうね。
証券はSBI証券がひとまず良いようだ。そろそろ口座を開設するかな。
帰る途中に、生まれてから見た中で最大の流れ星を見た。
普通の流れ星は、スッ、という感じに静かに流れるのだが、
ゴォーっという音が聞こえてきそうなくらい大きくて明るかった。
いわゆる火球と言われるやつだろう。
宇宙船か何かの墜落事故かと思ったが、後から調べたらオリオン座流星群らしい。
2009年10月14日
朝から仕事。晩は仕事関係の飲み。まず木倉町で飲んで食べてから片町のいつものお店へ。
ママさん達にちんすこうとデンマークのチョコレート持って行った。
チョコレートは結構微妙な味だった。外れた。
2009年10月13日
午前中で出張は終了。
那覇空港で、新垣のちんすこう、海ぶどう、沖縄そばカップラーメンなどのお土産を購入。
しばらく搭乗口付近で仕事をするが、どうやっても今日締め切りの書類は間に合わない情勢に。
仕方が無いので、職場に連絡して、締め切りを明日に延ばしてもらった。
と、そのとき、場内放送で名前を呼ばれた。
何事かと思ってカウンターに行くと、船舶通過のため乗る予定の便の出発が遅れ、
福岡空港で小松空港への乗り継ぎが出来なくなるとのこと。
羽田経由にすれば今日中に帰ることができるということだったので、そちらに振り替えてもらった。
しかし腑に落ちないのは、往路の時には、羽田経由に振り返ればその日のうちに沖縄まで行けたのに、
振り替えるには新たにチケットを取り直す必要があると言われたことである。
台風などの自然現象の場合は航空会社もそれほど便宜を図る必要は無いが、
そうじゃない場合の遅れは自然現象による遅延よりは航空会社の責任が重いから、
それなりの対応をするということかもしれない。
しかし、船舶通過って何だよ。
那覇−羽田の機内、羽田空港での待ち時間、羽田−小松の機内、小松空港からの空港バス、
その間ずっと書類作りにかかり切りになり、ようやく完成した。
夜遅くになり、やっと自宅に戻ってきた。
2009年10月12日
午前中は仕事。
午後からフリーになったので、希望者4人で海に行くことにした。
レンタカーで那覇市内から高速に乗り、終点で降り、海岸線に沿って更に北上、
名護市内を越え、美ら海水族館を通過して、備瀬ビーチに到着。
来る途中で水中マスクを購入した。備瀬集落の手前の駐車場に車を止め、
フクギ並木を歩き、並木を抜けたところでビーチに出た。
今回はライフベスト(大学生の時にちょっとした冒険をした時に買ったもの)を持ってきたので、
それを付けて泳いだのだが、まぁほんとに楽なこと楽なこと。
珊瑚礁の中を沢山の熱帯魚と一緒に泳ぐことができた。
ここの魚は餌付けされているようで、人間に寄って来る。
あと、50cmくらいの黒ナマコを何匹も見かけた。
ただ、眼鏡を外すと近視でほとんど見えないのが残念である。
眼鏡を付けたまま付けられる水中マスクとか無いのかな。
それか、その時だけコンタクトにするかだなぁ。
名護市内の沖縄料理の大衆食堂みたいなところで晩飯を食べ、帰路についた。
宿に帰ってからも仕事をしたが、明日締め切りの書類が全然出来ていない。まずいなぁ。
2009年10月11日
今日も朝から夕方まで仕事。晩は松山の焼肉屋へ行くことになった。有名人も来る店らしい。
石垣牛とあぐー豚を堪能、うまーい。値段もそれなりだが旨さには代えられん。
競馬で160億円脱税したUPROの事が話題になっているが、これは税法がおかしい
(というより競馬で継続的に儲けを出すということ自体が想定されていない)
からこんな金額になるだけで、実はそれほどは儲かってないと思う。
やり方は、絶対に来ないであろう馬を外して、
残りの三連単の組み合わせを重みを付けながら全部買うようなやり方らしい。
例えば、買い目が全部で1000通りとして、平均配当が1050倍とすると、全部買えば回収率は105%になる。
このとき、1000万円で1000通り買うと儲けは50万だけど、
税金は払い戻し金額から当たり馬券の購入代金を控除した金額にかかるので、
課税対象額は1050万円よりわずかに少ない金額となる。
3年間で1000レースに賭ければ、課税対象額は100億円くらいになるが、実際の儲けは5億円となる。
回収率100%ギリギリなら、実際の儲けはほとんど無くても課税対象額は100億円くらいになる。
3年間続けていたくらいなので累計収支はプラスなんだろうけど、実際の平均回収率によっては、
ほとんど儲かってない可能性もあるね。
かつて日本の競馬を分析した経験から言うと、
こういうやり方なら回収率105%あればかなり良い部類に入ると思うけど。
ところで、たとえ事業として競馬に賭けているとしても、
外れ馬券を控除できるようになることは絶対に無いと思う。
もしそんなことが認められれば、競馬場に行けば外れ馬券はいくらでも落ちているので、
拾ってくればいくらでも控除できてしまうからだ。
そういや競馬を頑張って分析してた頃、北の馬券師とかいう人がいたなー。
今どうしてるんだろうね。
2009年10月10日
朝から夕方まで仕事。昼飯に、有名だという沖縄そばの店に行ったが味は普通だった。
今年、宮古島への出張のときに毎日のように食べに行ってた宮古そばが、
やけに美味しかったのだが、何が違うのかなぁ。晩は居酒屋で飲み会。
宿に帰り、オリオンビールを飲みながら楡周平「Cの福音」を読んだ。
切れ味の鋭い展開と緊張感のある記述で迫力を感じるし、なかなか面白くて一気に読んでしまったのだが、
後から考えると、状況説明の文章が長くてまどろっこしいのと、
あんなリスクと不確実性の高い密輸方法をわざわざ取る必然性が感じられないという点には、
何だかなぁと思わんでもない。
2009年10月9日
朝一の福岡−沖縄便で那覇空港に到着。そのまま出張先へ。
夕方まで仕事をして、晩は古民家を利用した沖縄料理のお店へ。
宿に帰って仕事をしようとしたものの、部屋でもオリオンビールを飲んだら寝てしまった。
Winny裁判、開発者の金子氏に逆転無罪判決が出た。まぁ、当然だわな。
ところで、コンピュータに関係する仕事をしていると、
コンピュータウィルスとか作れますか?とか聞かれることが多い。
答えは、プログラムの能力がある程度以上ある人なら作ろうと思えば作れる、
しかしメリットが無い上にデメリットが大き過ぎるので作らない、という感じ。
まぁ、新規開発じゃなくてもいいなら、ソースをコピペすれば素人でも簡単に作れてしまうが…。
2009年10月8日
ANAで福岡乗継で沖縄に行く予定だったのだが、5時半起きで小松空港に行ったら飛行機が全面運休。
無料で振替できるのだが、どうやってもANAで今日中に沖縄に行くのは無理になってしまった。
JALなら行けるが、航空券を取り直すと経理上の手続きが色々と面倒だし、
明日の昼頃に那覇に着けば良いので、今日の第二便で福岡に行き、
明日の朝一で福岡から沖縄に飛ぶことにした。
第二便が夜の7時なので、さすがに一旦家に帰ろうと思ったが、
金沢駅行きのバスまで時間があるので小松駅行きのバスに乗って小松駅に着いたら、
JRも全面運休で金沢にも帰れず、立ち往生になってしまった。
しゃーないのでタクシーで近くのマンガ喫茶に行って寝たり仕事したり20世紀少年を読んだりして、
9時間ほど時間を潰した。
台風も近付いてきているし、事前に小松空港のウェブページで欠航情報を調べておけば良かったのだが、
小松空港は悪天候でもめったに欠航しないので、油断してしまった。
福岡では久しぶりに中洲の知り合いの女の子の所に飲みに行った。
もう5年くらい前、今の店の2つ前のお店にいた時からの知り合いなのだが、
店を移るたびに高い店になっていく。
でもまぁ、指名してボトル入れて女の子に好きなものを飲んでもらって5万円くらいだったので、
そんなに高いということもないような気もする。月に何度も行ったら大変だが、年に一回か二回のことだしね。
帰る途中、屋台で豚骨ラーメンを食べたが、食べている最中は美味いんだが、
後味がやはり美味い店に比べるといまいちであった。
ホテルに戻ってまた仕事。でも明日も早いしそろそろ寝なくちゃな。
2009年10月7日
明日から沖縄出張。それにしても仕事が次から次へと降ってきたり湧いてきたり。
いつになったらゆったり仕事が出来るのか。時間の使い方が下手なのかも。
実は出張中の方が時間が取れたりする。出張中にいくつか仕事を終わらせるつもり。
水着も持って行くので、時間があったら泳ぎたい。
しかし今回の出張の準備もまだ全部出来てないので、飛行機の中で終わらせなくては。
金は買いっぱなしで放置だが、3000円で仕切った分を買い直せないまま上げてきてしまった。
2009年10月6日
年末に、ほとんど手弁当のボランティアのような仕事でカンボジアに行くことになった。
向こうで学生にコンピュータの専門的なことを教えるのである。
中韓台以外のアジアは初めてなので楽しみだ。
今週から沖縄へ出張、来月はドイツと函館に出張、12月はカンボジアへ出張で、当分忙しい。
今年は日が流れるのが速かったが、年末までもあっという間かもしれない。
2009年10月5日
株価データをYahoo!ファイナンスから自動でダウンロードして統一フォーマットに直すプログラムが出来た。
商品は相場技研のデータファイルから落とすとして、FXはどこから落とすのがいいかな。
自分の考えているシステムでは、無駄なものをどんどん削ぎ落として行くと、
必要なものは終値だけになると思う。
デイトレをやるなら別だが、中期投資なら終値だけで十分なような気がする。
FXなんて終値が無いけど、毎日12時の値段とか、定点観測の値で十分。
出来高も要らない。あくまで自分のシステムにとってという話だが。
2009年10月4日
起きたら、先物タロウさんとサブローさんとにわとりさんは既に出た後だった。
若干二日酔いだが、大したことは無い。それよりも胸焼けして困った。
昨日、昼からずっと食べていたからなぁ。
梅田で七拍子さんと別れて、サンダーバードで金沢へ向かう。
昨日、七拍子さんと話をしたときに、225OPのコールよりプットが高いのはなぜか、という話になった。
七拍子さんは、現物を買っている人が、下落をヘッジするためにプットを買うからだと言っていたが、
それも少しはあるかもしれないけど、個人的には、原市場の非対称性(上げはゆっくりだけど下げは速い)
によるもので、必ずしもヘッジ買いによってプットの値段が押し上げられているわけではないんじゃないか、
という考えだった。
それを帰りの特急の中でつらつらと考えていたのだが、原市場の非対称性がオプションに反映されるなら、
その関係性から面白い取引が出来るかもしれないなぁと、いくつかアイデアが思いついた。
検証してみないと何とも言えないけどね。
そうこうするうちに金沢に到着。一度、家に帰ってシャワーを浴び、再び外出。
母親と祖母が金沢に来ているので、一緒に晩ご飯を食べた。
妻に、昨日、三角公園で飲んだという話をしたら、おやじ狩りに遭わなくてよかったねぇ、
なんて言われた。
2009年10月3日
今日は、さやえんどうさん主催のオフ会に参加するため大阪へ。午前中に出発し、サンダーバードで大阪へ。
心斎橋の居酒屋に到着。
参加者は、さやえんどうさん、先物タロウさん、サブローさん、トレーダーさん、
にわとりさん、七拍子さん、チバさん、それに自分の8人。
自分が到着したのは14時半くらいだったけど、そこから21時半くらいまで楽しく飲んで、
更に2次会で23時前まで飲んだ。いやぁ、商品相場のオフって、
いつもなんでこんなに時間の過ぎるのが早いんだろうね。
初対面なのは、トレーダーさん、にわとりさん、七拍子さん、チバさん。
トレーダーさんは織田裕二似の寡黙で渋い相場師であった。
にわとりさんは、かつて自分と同じくコーヒー指数と原市場の鞘取りをしていたそうだ。
共通する思考で相場に臨んでいたということがわかるので、共感を覚えるね。
七拍子さんは学生時代の気持ちをいまだに持ち続けている人かな。
自分の周りにも、かつては口角泡を飛ばして語り合う人がいたものだが、
高校、大学、社会人と進むにつれてそういう人はあまりいなくなってしまった。
そういう意味で、七拍子さんと話していると昔に戻ったような感じがして何だか懐かしくなった。
チバさんは静かにお酒を飲んでいる謎な人だったけど、実は凄いんじゃないかと感じた。
でも何が凄いのかも謎だけど。
三次会は七拍子さんの発案で外で飲もうということに。
そういうのは好きなので、自分も当然賛成。
先物タロウさん、サブローさん、にわとりさん、七拍子さん、それと自分の5人で、
コンビニで酒とツマミを買って三角公園で飲んだ。
若者が大勢スケボーとかで遊んでいるなかで、おっさん5人が車座になって酒を飲んでいて、
かなり異様な光景だったと思う。途中から更に若者達が増えてきて、
場違い感が更に強くなってきたので、ショッピングモールの入り口に移動してそこで続けて飲んだ。
午前4時ごろには焼酎のパックも空いたので近くのネカフェへ。
漫画でも読んでから寝ようと思ったけど、その余裕も無く寝てしまった。
いや〜、ほんとに楽しい一日だった。たまにはこういう機会があってもいい。
先物タロウさんが金沢に来たら金沢オフやりたいね。
2009年10月2日
久しぶりに出勤。今回は、旅行中はメールは見ないからと宣言して行ったので、
特に問題が発生することもなかった。
それでも何だかんだと仕事をしているうちに0時を回ってしまった。
相場は旅行中に金の安値があったようだ。指値して行けば良かったなぁ。
2009年10月1日
成田空港に到着。荷物を家に送り、東京駅から越後湯沢経由で金沢へ。
越後湯沢では駅蕎麦を食べる。出汁の味が美味い。
夕方頃に家に到着。不在連絡票が色々と来ているので再配達の手配をした。
もう、何もする気が起きず、寝た。
2009年9月30日
朝起きて、今回の旅行で最後の朝食を食べる。
ホテルのスタッフに愛想の良いおっちゃんがいて、時々親切にしてくれるのでホテルの印象がアップした。
妻と、卵はまだ茹でてる最中かな、なんて話をしていたら、茹でたての卵を持って来てくれた。
実は日本語がわかるんじゃないかなぁ。
チェックアウトし空港へ向かう。券売機で近距離切符を買い、電車に乗り込むと、
どの座席にもLEDで「KAN VARE RESERVERET」と表示されている。
指定席車両かと思って別の車両に移動しても同じである。妻はもう、疲れて動きたくないと言っているし、
困ったなぁと思い、とりあえず空いている席に座って地球の歩き方を読んでみると、
「KAN VARE RESERVERET」というのは予約可能という意味で、
誰かが予約すると表示が目的地の駅名に変化するということがわかった。
つまり、こちらの電車には指定席と自由席という区別はなく、
指定されていない席には自由に座って良いのである。場合によっては、
自分が予約無しに座っていた席が運悪く途中の駅から誰かに予約されてしまうことも有り得る。
その場合は、泣く泣く席を譲らねばならないということになる。
カストロプ空港に到着し、まずは付加価値税の払い戻しの手続きを行う。
その後、手荷物検査を受けて空港内へ。
お土産をいくつか購入。実家へはロイヤルコペンハーゲンのお皿を買った。
余ったクローネを消費するために、きっちり残額を計算してジャムなどを購入。
昼ご飯を食べようと、滑走路に面したフードコートのような所でパスタとドリンクのセットを一セットずつ注文したら、
二人で324Krもした。日本円で6000円くらいである。いくら空港価格とはいっても法外な値段だ。
まぁ、向こうの人にとっては3000円程度の感覚で、少々高いという位なのかもしれないが。
国民一人当たりのGDPは、デンマークが世界5位、日本は23位。
為替の強い国に行くと弱い国の人間は悲哀を感じるね。
出国審査を通過し、搭乗口へ移動。
搭乗時刻までターミナルを散歩したりして時間を潰し、いよいよ搭乗。無事に離陸した。
機内では、しばらくテトリスで遊んだ後、「天使と悪魔」を観た。
反物質なんてものが登場した時点で興醒め。そりゃ遠い未来には有り得ない話ではないかもしれないが、
現時点では絵空事のそのまた絵空事である。
ダヴィンチコードには、フィクションなんだけどノンフィクション的な要素も感じられたが、
この作品はリアリティーという点では駄目だな。
次が「ロスト・イン・トランスレーション」。良かったけど、
舞台が日本なだけに、どうも素直に観られない部分が多かった。
映画を観た後は寝てしまい、起きたらもうユーラシア大陸の東の端であった。
2009年9月29日
今日は、アンデルセン生誕の地、オーデンセへ行くことに。
近距離の切符は券売機で買えるが、長距離列車の切符は窓口で買う。
コペンハーゲン駅の窓口で、オーデンセ往復2枚、と言ったところ、
何か聞かれたけど聞き取れなかったので適当に返事をしたら、ちゃんと切符が出てきた。
6番乗り場に行けと言われた。
切符には8時50分発と書いてる。現在時刻は8時45分である。
窓口のおばちゃんが本当に6番乗り場と言ったのかも確信が持てなかったので、
駅に掲示されている時刻表で確認したかったのだが、もう時間が無いので6番乗り場に急いだ。
すると8時50分丁度に電車が来た。
多分これで合っているだろうと思って乗ろうとしたところ、
切符には指定が22号車と書いてあるのに、どう見ても22両もあるようには見えない。
マジかよ、と思いながら小走りにホームを移動すると、8号車だったか9号車だったかの後ろが21号車で、
その次が22号車であった。混乱のネタが満載である。
券に書かれた座席に移動すると、隣の席が日本人の女性の方であった。
夫婦以外で久しぶりに日本語で会話をした。
今は年金生活で、今回は一人で電車で北欧を周っていると言っていた。
いやぁ、元気だなぁ。
途中、海を渡り、1時間半ほどでオーデンセに到着。
現金が乏しくなってきたので、駅で1万円両替。
レートの看板を出してないので怪しい気がしたが、それほど悪くはなかった。
町を歩いていると雑貨屋さんがあり、ネコグッズがいくつかあったので、獣ちゃんへのお土産に購入。
しばらく歩くとすぐにアンデルセン博物館に到着した。
ここでは、アンデルセンの生涯が多数の資料とともに展示されていて、非常に興味深かった。
彼は非常に貧しい家庭に生まれたものの、後に童話作家として成功し、
その温和な人柄もあって、ヨーロッパの上流階級に迎え入れられることになる。
彼は生涯で何度か熱烈な恋をしているが、その全てが成就せず、死ぬまで独身であった。
当時の上流階級の人達の間では、男性は、領地を保有し、そこから上がる定収入(不労所得)がないと、
まともな結婚相手としては認識されなかったのである。
アンデルセンには印税収入はあったものの、不安定で、しかも額も多いとはいえなかった。
彼は上流階級の人々の間で歓迎され、あちこちの貴族から屋敷に長く逗留してくれるように望まれ、
彼らや彼女らと親しく付き合ったものの、
それはあくまで童話作家のアンデルセンとして歓迎されていたのであり、
結婚の相手としては最初から対象外であった。恋愛が上手く行かなかったのも当然であったのである。
というようなことが解説に書いてあった。
彼は失恋するたびに長い旅に出ている。また「生きることは旅することである」とも言っている。
昔に比べて身分の違いも少ない現在なら、彼ももっと幸せな人生を送ったかもしれない。
しかしその場合には、彼の作品も生まれなかったかもしれないが。
博物館のカフェでお茶を飲んでしばらく休み、次は「赤い靴」に出てくる教会のモデルになった、
聖クヌート教会へ。美しい造形の建物である。
誰もいない教会に入り、ステンドグラスを透過する光を眺めながら、
しばらくボーっと物思いにふけった。
教会の裏の公園で教会をバックに写真を撮り、次は教会近くのアンデルセンの子供時代の家へ。
長屋の一室の、6畳ほどの一部屋に1.5畳ほどの台所がついただけの家で、
父親の仕事場、家族の寝室および食堂を全て兼ねて、一家8人が暮らしていたそうだ。
管理しているおばちゃんが英語で色々と解説してくれた。
駅へ戻る途中のデパートで良さげな卵置きを見つけて購入。
お腹が空いたので、イタリアンがないかと探したが見つからず、結局、
駅まで戻って、レストランで牛肉とジャガイモの料理を食べた。味はまぁまぁ美味しい。
帰りの指定を取ろうと窓口へ行ったら、指定を取るか?と聞かれ、お願いします、
と言ったら50Kr払うように言われた。これでようやく理解した。
日本のように指定席運賃と自由席運賃が分かれているわけではなく、
運賃にプラスして一人25Kr払えば座席指定できるということなのである。
往路の窓口でも、聞き取れなかったが、たぶん、座席指定をするか? するなら5分後の電車だけどいいか?
などと聞かれたのだろう。指定を取らなければ往復で2000円くらい安くなった計算になるが、
まぁ、かなり混雑していたので良しとしよう。
駅の売店で日経新聞国際版を見つけて思わず購入。日本語が懐かしい。
ホテルには夕方戻り、帰る準備などをしつつダラダラした。
2009年9月28日
今日は朝からコペンハーゲン動物園へ。
特に珍しい動物がいるわけでもないが、昨日、あくせくと見て周り過ぎたので、
今日はゆっくりしようかと。
朝から雨がぱらついているが、道行く人で傘を差している人は稀である。理由はよく分からない。
駅の北側からバスに乗ると、幼稚園か小学校の遠足とおぼしき集団が乗っていた。
案の定、動物園でぞろぞろと降りたので一緒に降りる。
動物園の中に入った時点で雨が本降りになってきた。思わず売店で傘を購入。
動物園のロゴと象のマークの入った傘である。
しばらく傘を差して歩いていたら、すぐに雨が止んでしまった。
もしかしたら、こっちの雨は比較的すぐに上がるのかもしれない。
この動物園は、動物のためのスペースを広めに取り、
彼らがのびのびと生活できるように配慮してあるように感じた。
象なんかも、水場や象舎を含めて100m×150mくらいという、
日本の動物園の感覚からすればかなり広い敷地で暮らしている。
その一方で、広めのスペースの中で動物が来園者の近くに来るように工夫されているに思える
(なかには、いったいどこにいるのか?と探しても見当たらない動物もいたが)。
そのかわり、規模自体は小さめなので、基本的な動物を中心に種類はそれほど多くはない。
二匹の白クマのうち、一匹が岩の上でくつろいでいて、
もう一匹が水の中でポリ容器と戯れてバカっぽく遊んでいた。
遊んでる方がオスに違いないと妻は主張していた。
この動物園で面白いなと思ったのは、各動物ごとに企業のスポンサーがついているということである。
例えば象などは看板のスポンサーの欄に沢山の企業がズラズラと書いてあるが、
マイナーな動物にはあまりスポンサーがついていない。
これ、企業にとってはどういう利点があるのかな。コマーシャルで、
わが社はコペンハーゲン動物園のキリンを後援しています、とか言うのかも。
ラクダコーナーに隣接する動物園のカフェで、ラクダを見ながら昼食を食べる。
スープとサンドイッチを頼んだら、大きなお皿で、
パンに大きな肉が半分以上はみ出して挟まれた料理が出てきた。
これはサンドイッチというより、ナイフとフォークで食べる別の料理だろう、
と思ったものの、美味しかったので問題は無い。
動物園は予想以上に楽しめた。2時ごろ、バスに乗って駅方面へ戻った。
スーパーを発見したので缶詰などを買い込む。
こちらでは、買い物の際に切り上げの法則が発動されるケースがあるようだ。
つまり、49.5Krで50Kr札を出した場合、50ore(1Kr=100ore)のお釣りが来る筈が、
1Kr未満は切り上げられてお釣りは返ってこないのである。これは法律で決まっているのか、
慣習なのか、謎である。
一度ホテルに戻ってしばらく休んでから、買い物のために出陣。
駅前からバスでニューハウンへ行き、まずは妻が行きたいという手芸屋さんへ。
住所を頼りに探し、完全に住所に合致する場所にたどり着いたが、そこはどう見ても普通の住宅地で、
お店があるようには見えなかった。閉店したのかもしれない。
さて、買い物だが、まずはコペンハーゲンで一番大きいデパートである、マガシン・デュ・ノルドへ。
妻は知り合いへのお土産に台所用品などを購入。
自分は北欧デザインのティーセットでも買おうかと物色していたら、
ふとモダンなデザインのティーセットに惹きつけられて二客購入した。
しかし、購入したティーセットのブランドのVilleroy Bochってドイツのメーカーだった。
ドイツだったら仕事で行くこともあるだろうし、
わざわざ物価の高いデンマークでドイツの物を買うのもどうかと思ったが、
新婚旅行の思い出としての意味があるのでそこは考えないことにする。
次に、もう一つの大きなデパートであるイルムへ。妻は友人にテーブルに敷く布を、
自分の実家へのお土産に同じものを購入。
ゆで卵置きの良いのを探しているのだが、いまいち気に入ったのが無い。
その後、最上階のカフェでチョコレートマフィンとコーヒーで一休みした。
休憩後、ロイヤルコペンハーゲンに行ったら閉店時間ということで、
初日にも行ったイルムスへ移動。二人でそれぞれ一つずつiittalaのマグカップを購入。
iittalaもフィンランドブランドだからデンマークではないな。
ここでもゆで卵置きを探したが、いまいちピンと来るのは無かった。
雨も降ってきたし、寒いし、お腹も減ったので、晩ご飯の場所を探す。
二人ともイタリアンにしたい気分であったが、今まで街中ではいくらでも見かけたのに、
いざ探すと見当たらない。
もう、どこでもいいからということで、日本でいえばファミレスっぽい店に入った。
ビールとビュッフェにしたが、とりあえずお腹は一杯になったものの、かなりいまいち。
寿司があって結構人気だったが、食べてみると、シャリがべちゃべちゃで全然だめである。
こちらの人には、ああいうのを食べて、寿司って美味しいとか思わないでもらいたいものだ。
自分はそれほどでもないが、妻は徐々に疲労が溜まってきているようだ。
長丁場だし、当初はだらだら休みながら観光し、一日中、何もせずホテルでくつろぐ日もあってもいい、
と思っていたのだが、来てみるとやっぱり積極的に動き回ってしまい、疲れが溜まってしまう。
海外旅行も5泊6日くらいが丁度いいような気がする。見逃したものがあっても、またそのうち来ればいいし。
ホテルに戻り、シャワーを浴びて就寝。
2009年9月27日
朝ご飯、さすが酪農国だけあって、チーズやハムの種類が豊富で美味しい。
今日はまず、駅の表側に行き、カステレット要塞へ行くバスに乗った。
バス停名の車内表示も無いので、地図の見つつ現在地の見当をつける。
どのみち乗り放題なので、乗り過ごしても何ら問題は無いが。
コペンハーゲンカードに付属していた市内バスの路線図が便利だ。
しばらく市内を運行し、Osterportで下車。
星型のカステレット要塞の周りを右回りに散歩した。
ジョギングしている人が多い。
約半周して海側に出たあたりの海岸に、有名な人魚姫の像がある。
近くまで行くと観光バスが沢山来ていて観光客が集まっていた。日本人のツアー客もいる。
世界三大がっかりとか言われるらしいけど、特にがっかりはしなかった。
どちらかというと良かったと思う。
しかし、ツアーで大勢でやって来てそそくさと写真を撮り、すぐにまたバスで次の観光地に向かうような、
そんな旅行はしたくないもんだな。別に全てを見る必要はない。
旅行先ではゆったり過ごさないと、その国の日常に底流する現地の雰囲気は味わえないと思う。
人魚姫の像を見た後は、カステレット要塞の中を散歩。ここは現在でも兵舎として使われているようだ。
反対側に抜け、聖アルバニ教会を背景に写真を撮る。
このあたりはなかなか良いところだ。海も近いし、緑も豊富で、近所に住んでいたら、
散歩したり本を読んだりするのに丁度いい。
ゲフィオンの泉を見た後、近くにあるはずの自由博物館を探すが見つからず、デンマーク工芸博物館へ向かう。
と思ったら、アメリエンボー宮殿まで来てしまい、引き返して探してようやく発見した。
一度、知らずに通り過ぎてしまったようだ。
この博物館の外のゲートを入ってすぐの所にある、コンクリートの椅子がいきなり気に入ってしまった。
これ、自分で作れないかなぁ。型を作ってコンクリートを流し込めば出来そうだが…。
失敗すると処分に困るコンクリートの塊が発生してしまうけど。
この博物館には、過去から現代までの、デンマーク内外の家具などが多く展示されており、
なかなか見応えがあった。一通り見終わった後は、ミジュージアムカフェでコーヒーとケーキをいただいた。
こちらの大きな道路には、車道と歩道の間に自転車専用道路がある。
日本の道路交通法で自転車が車道を走ることになっているのと比べると安全性が高くて良い。
工芸博物館の後はアメリエンボー宮殿へ。中を見学しようと受付に行くと、
ロッカーに荷物を預けるように言われたので、荷物を入れて鍵を回そうとしたが、回らない。
しばらく悩み、扉の裏側にコインを入れる所があるのに気がついた。
これは日本のに慣れているとなかなかわからんね(もちろんコインは返却される)。
展示物は、宝石とか銀製品とかも良かったけど、代々の国王の居室が再現されているのが一番面白かった。
人によっては、机の半分くらいが家族の写真を入れた写真立てで埋まっていたり、
別の人の部屋には本が大量にあったり、また別の人の部屋は、
武器マニアだったようで、鉄砲やナイフなどが壁一面に架かっていた。
売店では、代々のロイヤルファミリーの写真付き家系図の絵葉書が売られているなど、
皇室は人々に親しまれているようである。
その後、ニューハウンの町並みを歩き、王立劇場の前から二区間ほどバスに乗ってクリスチャンボー城へ。
中を見学するのはガイドツアーのみだったので、面倒なので中庭を散歩するだけにして、
庭園を通り抜けて王立図書館へ。妻によるとここのカフェはおしゃれで良いらしいのだが、日曜日は休みであった。
休みの曜日くらい、事前にチェックしておかないとなぁ。行き当たりばったりにもほどがある。
しばらく運河を眺めながら休んでから、国立博物館へ。
ここは広くて、ゆっくり見ようと思うと一日がかりになりそうである。
個人的には、琥珀関連のコレクションと、王室のコインのコレクションが良かった。
実はこの博物館の目玉は、太陽の車という青銅器時代の発掘品(デンマーク史上最大の発掘品だとか)らしいのだが、
見た記憶が無い。うっかり見過ごしてしまったのかも。
国立博物館の次は、リプリーのビリーブ・イット・オア・ノット博物館なるところへ。
冒険家のリプリーさんという人が世界中を廻って、珍しいものを集めて展示しているそうだが、
くだらない物が多くていまいちだった。
日本でいえば見世物小屋的な感じで、奇形の動物の剥製なんかのあたりで妻の気分が悪くなってしまい、
早々に退散した。
日も暮れてきたので、晩ご飯を食べようと駅付近で店を物色するが、どこもいまいちの感じ。
とするうちに賑わっている店があったので入ってみた。メキシコ料理のお店であった。
パエリアを注文して二人で食べたが、たっぷりの量だったのでお腹も満足である。
それにしても、妻に指摘されて気が付いたが、無意識のうちにご飯ものを選んでしまうなぁ。
ディナーについては事前に全くリサーチしてなくて、適当に現地で見つけて入ろうと思っていたら、
中華料理だったりメキシコ料理だったりで、全然、東欧や北欧のディナーを食べてない。
ホテルに戻る。バスタブが無くてシャワーだけなのが日本人にとってはいまいちだ。
予約サイトでの表記ではバスタブ有りだったような気がするのだが、気のせいだったかな。
ホテルはいつも予約サイトで予約している。今まで使ったことがあるのは、
Expedia、オクトパストラベル、HotelTravel.comだが、予約がされてなかったとか、
先払いしてたにも関わらず現地でも料金を請求された、などの大きなトラブルは今のところない。
着いたら満室で別のホテルに移動させられたとか、朝食が無料のはずが有料だったとか、
バスタブが有るはずが無かったとか、そういう小さなトラブルはよくある。
まぁ、その程度のトラブルを気にしていたら海外旅行なんかできないが。
2009年9月26日
今日でグダンスクともお別れし、コペンハーゲンへ向かう。
最初、空港までバスで行こうと思っていたのだが、荷物が多くて駅まで歩くのが大変なのと、
万が一、スリの被害に遭ったり別のバスに乗ってしまうなどのトラブルが発生した場合に、
飛行機の時間に間に合わなくなる恐れがあるので、ホテルのフロントでタクシーをお願いした。
そうしたら、とてもタクシーには見えない普通のベンツがやって来て、タクシーだという。
何となく疑念を抱きつつ、乗り込んだところ、無事に空港まで送ってくれた。
料金は85zlであった。行きの3倍くらいである。まぁ、ベンツだしなぁ。
待ち時間はたっぷりあったので、売店を見た後、カフェに入って時間を潰した。
サーモンサンドときのこスープを頼んだら、なかなか美味しかったが、スープがかなり塩辛かった。
総体的に、こっちの料理は塩辛く感じるのである。日本人とポーランド人の味覚の違いかな。
余ったお金でお菓子を買い、ズロチを全て使い切った。
搭乗時間になり、小さな飛行機に乗り込む。パイロットのおじさんが格好いい。
1時間弱のフライトでコペンハーゲン・カストロプ空港に到着。デンマークは物価がかなり高いので、
ひとまず5万円両替した。足りなくなっても街中にいくらでも両替所があるのでその都度換えれば良い。
レートは1Kr(デンマーククローネ)が20円というところ。
まずはインフォメーションでコペンハーゲンカードを購入した。
このカードには24時間用と72時間用があり、72時間用は450Krで、
コペンハーゲンの鉄道やバスが乗り放題になり、
さらに美術館を始めとする様々な観光施設に無料で入場できるのである。
今回計画している観光プランでは恐らく元は取れないと思うけど、利便性を考えて購入することにした。
乗り放題なら、バスを乗り間違えても平気だし、一区間だけ乗るとかもできるので。
京都とかもこういうカードを作ったらいいのにね。
市バスと地下鉄が乗り放題で、どの寺も無料で拝観できるようなものがあれば観光客には良いと思う。
ポーランドと同じで改札は無い。そのかわり、無賃乗車は600Krの罰金と書いてる。
改札を行わずに高確率で検札を実施するのと、日本のように自動改札機を設置するのと、
どちらがコスト的には有利なんだろうね。
改札を設置しない場合には、どうしても無賃乗車を100%防止することはできないから、
完璧を目指すならば日本のように改札を設置する方向に行かざるを得ないんだろうけど。
ちなみに、同じ切符で何回も乗れないように、ポーランドと同じく切符に有効時間がある
(近距離なら1時間とか、長距離なら一日とか)。
ポーランドと同じく、自分で改札する切符もあるようだ
(こちらでも改札機でガチャンとやってから乗り込む人を見かけた)。
鉄道の乗り場に行くと、ストックホルム行きの電車が停まっていた。
これに乗ればストックホルムまで行けるのかと思うと感慨深い。
日本には、外国に行く電車は無いからねぇ。
逆方向のホームだったので、一度上がり、向かいのホームへ。
どの電車に乗ってもコペンハーゲン中央駅を通るはずなのだが、地球の歩き方を読むと、
コペンハーゲン中央駅に停まらない電車もあると書いてある。
なんか不安だけど、とりあえず来た電車が大丈夫そうだったので乗ってみた。
表示がデンマーク語なんで、よくわからんのである。
20分ほどで無事にコペンハーゲン中央駅に到着。
グダンスクではほとんど白人しか見かけなかったが、コペンハーゲンは人種の坩堝といった感じである。
ホテルは駅裏のホテル街のわかり易い場所にあった。
チェックインして部屋に入ったが、日本でいえば安めのビジネスホテルという感じ。
グダンスクで泊まった街で一番良いホテルと料金はほとんど同じなのに、えらい違いである。
物価の違いを実感する。
その後、街を散歩した。駅の正面からチボリ公園の脇を通ってストロイエ通りを歩く。
チボリ公園は今の時期は開園していないようである。それにしても人が多い。
蚤の市を物色するために、少し逸れてガンメルストランドへ寄ってみたが、特に掘り出し物も無し。
ストロイエに戻ると、ロイヤルコペンハーゲンのお店があったので入ってみた。
こういう素敵なお皿かティーセットを、一つ家に欲しいものだ。
ロイヤルコペンハーゲンのデザインは何となく日本的に見える。何か影響を受けているのかもしれない。
店舗から裏に抜けると、食器からインテリアまであらゆるものが揃っているデパートに出た。
イルムスというお店のようだ。またこのお店がひたすら広いのである。行っても行っても奥がある。
並んでいる商品は、台所用品から家具まで、みな洗練されたデザインのものばかり。
普段からこういう品々に囲まれて暮らしているとデザインに関する感覚も自然と磨かれるのだろう。
一階から最上階までくまなく見て周ったので、かなりデザインに対する目が肥えたような気がする。
電気スタンドなど、買って帰って使いたいものも多かった(回路は取り換えないといけないけど)が、
どれも値段が凄くて断念した。1Krは20円くらいだけど、
こちらの感覚だと1Krは10円くらいの価値しか無い感じがする。つまり物価は日本の倍くらいだと思う。
実際に買い物をするのは後日にして、今日のところは店を出た。
しばらく歩くとディスカウントストアがあり賑わっていた。
入ってみたが、安いものが揃っているものの、さっき目が肥えたのもあって、全然パッとしない。
その後、軽食スタンドみたいな所で、妻はお惣菜系のクレープを、
自分はチキンサンドのアメリカンドッグみたいなのを食べた。かなりお腹が一杯に。
疲れていてあまり外で食べるような元気も無かったので、駅に戻り、
ホテルの近くのコンビニ(セブンイレブンがあちこちにある)でポテチとドーナツとビールを買い、
ホテルに戻ってテレビを見ながら食べて飲んで寝た。ドーナツは甘過ぎた。
2009年9月25日
朝食を食べ、駅に向かった。途中でネコを何匹か見かけた。
こちらのネコはあまり大事に飼われている感じがしない。犬は大事にされているようだが。
グダンスク中央駅に着き、ソポトまでの切符を買おうと思ったが、
券売機がポーランド語でよく分からない。
液晶画面でソポトを選択しても、その後に券の種類が沢山あってどれを選べばよいのかわからないのである。
たぶん往復とか子供料金とかだと思うが…。
とりあえず勘でそれらしいのを選んだら切符が出てきた。片道3.1zlである。安いねぇ。
で、この切符を昨日予習したように改札機で改札しようと思ったら、
切符が大きくて改札機に入らない。
どうしたものか悩むが、たぶん、改札すべき切符は、近距離専用の駅名の入ってない切符であり、
発券されたものは既にGdansk-Sopotと書いてあるので改札しなくても良いのだろうと判断し、
若干の不安を感じつつも、止まっていたグディニア行きの電車に乗り込んだ。
車内アナウンスも何も無くおもむろに扉が閉まり発車した。
その後のアナウンスも一切無いので、駅に着くごとに駅名をチェック。
途中で検札が来たが無事にパスした。そうこうするうちにソポト駅に到着。
駅から出たが、地図も持ってないので様子がわからない。
すぐ近くが海で砂浜がある筈なのだが、ごく普通の町で、とても海がある雰囲気ではない。
とりあえず、グダンスクからソポトに向かって右手に海がある筈なので、
そちらに向かって適当に歩いてみた。周りは普通の住宅地である。
途中で妻がネコの写真を撮ったりしつつ、歩く。
実は海まですごく遠かったらどうしよう、と思っていたら、急に観光地っぽい通りに出た。
どうやらその通りは駅方面にも繋がっているようだ。
もう少し駅周辺をウロウロすれば観光ルートを見つけられたのだろう。
国内でも海外でも、旅行に出かけると結構適当に歩いてしまうので、こういう事は良くある。
でもその方が人々の普通の暮らしに近付けるので良いと思う。
通りに出たらすぐに海であった。
通りの先にはヨーロッパ最長の木造の観光桟橋がある。せっかくなので料金を払って先まで歩いてみた。
チケットをチェックするボックスが二ヶ所くらいあって互いに2mほど離れているのだが、
一ヶ所の入り口の担当のおばちゃんがもう一ヶ所の入り口に移動して、
そこの担当のおばちゃんとぺちゃくちゃお喋りをしている。
誰もいない入り口を通りそうな人がいれば、こっちを通るようにと声をかけている。長閑だなぁ。
日本の場合だと、おばちゃんも、それぞれの持ち場で黙々と仕事をしてそうだが。
観光桟橋を歩いた後、砂浜で琥珀を探すが、かなり丹念に探したものの一個も見つからず。
んー、このあたりで琥珀拾い大会が開催されたりするとか、ネットで見たような気もするんだけどなぁ。
砂浜のは全部拾われてしまって、琥珀博物館で見たような虫取り網みたいなので、
少し沖の方を掘り返さないといけないのか…。
それでも一つぐらい見逃されて落ちてても、と思ったが見つからず、とうとう最後には断念した。
もしかしたら、どこでも採れるわけではなく、採取地は限定されているのかもしれない。
品質の悪いのだったらグダンスクの露店で安く大量に売っているので、
このあたりのどこかで採れていることは間違いないと思うのだが。
まぁ、またいつか、しっかりとリサーチした上で再挑戦しないといけないなぁ。
砂浜の砂は石英の粒が沢山混じった綺麗な砂であった。
桟橋の付近にも琥珀の露店が沢山出ており、妻はお土産を買っていた。
そのあたりの軽食店でサーモンフライを注文したら、これがまた量が多い。
その後、メインストリートを通って駅へ向かった。
ソポトは閑静な住宅街が広がる、感じの良い町であった。
駅の窓口で切符を購入したら、今度は駅名も時間も何も書いてない切符であった。
しばらく探すとホームへ続く地下道の壁に改札機があったので、差し込むと、
ガチャンという音とともに駅名と時間が印刷された。
グダンスクへ戻る。手持ちが心細くなってきたので両替屋さんを探す。
日本円を扱っている所があったので1万円両替した。
駅から少し歩いた所に元武器庫を改装したデパートがあったので、
地下の食料品売り場でサーモンの缶詰、パスタ麺、紅茶、スープの元、ケーキ、ビール、チョコレートなどを購入。
かなり色々と買ったのだが、レジを通ると200zlほどであった。
その時は何とも思わなかったが、店を出てから良く考えると、日本円に直して6500円くらいである。
この国の物価を考えるとちょっとおかしいような気がした。
レシートは捨ててしまったので今さらどうしようもないが、
前の人の分が一緒にカウントされてしまったのか、それともやはりそれだけの買い物をしたのか、
どちらとも判別がつかない。
ホテルに戻って二人でケーキを食べ、少し休んでから、ホテル近くの木造クレーンを見学に出掛けた。
内部も見学できて、なかなか興味深い。
中にはハムスターの回し車を巨大にしたようなのがあり、人が中に入ってせっせと回し、
それを動力にして船から荷物を吊り上げていたようである。
その後、付近を散歩した。晩ご飯や明日のタクシー代のことを考えて、更に50ドル両替。
グダンスクの街ではあまり子供を見かけないのだが、ジェロニー橋で集団で竹馬に乗っている子供達を見かけた。
彼らの乗っている竹馬は、足にバンドか何かで固定されるタイプのもので、
安定は良さそうだけど転倒したら危険なように思えた。
晩は近くの中華料理へ。やっぱり慣れた味というか、懐かしいというか、とにかく美味かった。
中華は世界中どこでもあまりハズレが無い。一方で、日本料理はよく外れる。
こちらにはチップの習慣があると地球の歩き方に書いてあるが、
食事を食べてお金を渡してもちゃんと勘定通りにお釣りが返ってくるし、
どうチップを払ったら良いかよくわからない。
そういえばホテルでも、枕元にチップとして小銭を置いておいたのだけど、
回収されずにそのまま机の上に置いてあった。事情が良く分からん。
2009年9月24日
時差のせいで5時に目が覚めた。しばらくボーっと外を眺めていたら徐々に空が薄明るくなってきた。
運河に停泊している大きな船や、運河の向こう側のレンガ造りの倉庫、更にその向こうの町並みが、
街灯に照らされて浮かび上がり、映画のオープニングかなにかのような光景である。
7時になり、待ちかねた朝食を食べに食堂へ下りる。
たっぷりのコンチネンタルブレックファストである。
自分はいつも、パンを半分に切ってチーズやらハムやらトマトやらをはさんで食べるのだが、
他に同じ食べ方をしている人を見たことがない。もしかしたら無作法な食べ方なのかも。
朝食後、さっそく付近を観光に出掛けた。最初の目的地はグダンスク造船所である。
持っている地図の外だったが、運河沿いに行けばすぐ海に出られて、造船所も見つかるだろうと、
ホテルの前の運河に沿って下流へ歩きだした。
道はすぐに、明らかに観光ルートではない普通の草むした道になり、
地元のおっちゃんがゆったり釣りをしたり、犬の散歩をさせていた。
道が合っているかどうかもわからないまま、
遠くに見える造船所のクレーンらしきものを目標に歩いていくと、連帯記念碑に出た。
この記念碑は、グダンスク造船所の労働者達が労働組合「連帯」
を結成して政府に抵抗し、それが東欧民主化の始まりとなったことを記念し、
また、ポーランド民主化運動の過程で犠牲になった人々を追悼するために建てられたものである。
記念碑の後ろの壁には各国からのメッセージの入ったプレートがはめ込まれていて、日本語のもあった。
左翼セクトの立て看板みたいな書体だったな。どこの団体からのメッセージだろう?
造船所の記念館は時間が早過ぎてまだ開いてなかったので駅方面へ向かった。
途中に英語の観光看板があり、グダンスク造船所の労働者暴動が東欧民主化に繋がり、
ベルリンの壁が崩壊することになった、我々ポーランド人はその事を誇りに思っている、
と書いてあった。
明日は電車でソポトに行くので、駅で時刻表を確認。かなり頻繁に出ているので、
メモはしなくても良さそうである。それと、こちらの切符のシステムはかなり特殊なので、
その様子も下見した。
こちらには改札口は無い。そのかわり、買った切符を駅にある改札機で自分で改札して
(日付と時刻が印字されるらしい)電車に乗る。
距離に応じて違うが、例えば一番近距離の場合は、切符は改札してから1時間のみ有効である。
電車内ではほぼ確実に検札がやってきて、切符を持ってないか、持っていても改札されていないと、
高額の罰金を取られるらしい。
問題は、この改札機の場所が分かり難いということである。しかし少し探したら発見した。
駅の本屋で立ち読みしていたら、金貨の専門雑誌を発見。
ポーランド語なので詳しくはわからないが、古代ローマから近世までの金貨が載っていて、
売値と買値が書いてある。そういや日本でも、切手でそんな雑誌があったな。
駅から線路に平行に少し歩くと、通称、高い門に到着。ここからグダンスクのメイン観光路に入る。
すぐに囚人塔がある。ここは昔は牢獄だったのだが、現在は琥珀博物館になっている。
もちろん見学。大小様々な琥珀の原石や、琥珀製品、それに琥珀の採取法を解説したコーナーなどもあり、
なかなか興味深かった。琥珀の箱が素敵だった。
その後、黄金の門をくぐると、王の道と言われる広くて真っ直ぐな通りに入る。
道幅が広くて歩行者専用なので、通りというより広場がずっと続いている感じである。
先の方は更に広くなっていて、ドゥウーギ広場と呼ばれている。
あちこちに琥珀の露天が出ていてテンションが上がる。一軒一軒、商品を見ながら歩く。
少し疲れたので、カフェでコーヒーを飲んだ。
旧市庁舎が博物館になっているので行ってみたが、閉まっていた。
旧市庁舎の裏手に聖マリア教会の大きな建物があったので、入ってみると、
受付のおばさんに、上まで登るか?と聞かれ、思わずハイと答えてしまった。
案内されるまま、入場料を払って階段を登り始める。建物には大きな柱が10本以上あり、
そのうちの一本の柱の内部が空洞になっていて螺旋階段が上に続いている。
柱の中を登り切ると天井の上に出るが、更に階段で登る。階段の段数が書いてあり、
404段登ったところで屋根の上に到着。グダンスク市内が一望の下に見渡せる。
調和の取れた町並みの美しい景色が広がっている。
しばらく景色を見た後、また階段を下り始めた。下りるルートは別の柱の中だった。
王の道に戻ると急に雨が降ってきたので、とりあえず近くのレストランに入った。
どこの店も、昼間はテーブルと椅子とパラソルを外に並べて営業している。
ここで二人でピザとパスタを頼んだら、量が多過ぎであった。しかも結構塩辛い。
周りを見るとみんなビールを飲んでるので、釣られてビールを頼んでしまった。
隣のテーブルに英語を話しているカップルがいて、何となく聞こえてくる会話を聞いていると、
女性の方が、一人一人が自覚を持って政治や国際情勢について理解しなくちゃいけない、
みたいな話を熱心にしていて、男性の方が別にそんなに頑張らなくてもいいんじゃないか、
みたいな話をしていた。
雨も止んだので、観光を再開。琥珀屋さんを片っ端から見て歩く。でも相場を把握するまでは買わない。
王の道の端まで行って緑の門をくぐると運河に出た。そこから少し運河を歩き、
聖マリア病院へ向かう小路に入る。ここはマリアッカ通りと言われていて、
琥珀の店が多いことで有名なのである。短くて狭い通りだが、琥珀の店がずらりと並んでいる。
もちろん一軒ずつ見て回った。
自分は琥珀の小箱を買うことに決定。大体の値段は把握したし、
どこの店にどんな商品があったかもある程度は覚えていたので、
もう一度、ドゥウーギ広場とマリアッカ通りを一周し、結局、そのうちの一店で小箱を購入した。
値札は278zlだったが、安くしてよと言ったら240zlにまけてくれた。もっと値切れるかもしれないけど、
一発で38zlも下げてくれた思い切りの良さが好印象だったので、その値段で購入。
それを考えると香港なんて酷いものだった。値切っても数%しか下げてくれないから、
しつこく食い下がらないといけない。
更に別の店で、グリーン琥珀の小さい原石を40zlで購入。これにて琥珀関係の購入は終了。
妻は琥珀のブレスレットと、実家へのお土産用に琥珀が使われた置物を買ったようだ。
あと,Solidarnosci(連帯)のロゴの入ったTシャツを購入。
緑の門からホテルまでは運河沿いに歩けばすぐである。
かなり歩いて疲れたので、一度ホテルに戻ってベッドでゴロゴロして休んだ。
1時間ほど休んで観光再開。
ホテルの前あたりから運河を渡る渡し舟が出ているので、それに乗って向こう岸に渡った(一人1zl)。
ぐるっと遠回りして橋を渡れば歩けないこともないが、せっかくの観光なのでここは乗るだろう。
対岸にある海洋博物館が目的である。この博物館では、ポーランド、
特にグダンスクの海運の歴史が古代から現代に至るまで詳細に展示されている。
解説はポーランド語なので詳細は分からないが。
本館を見終わり、別館となっている、運河に繋留されている船の中を見学しようと中に入ったら、
もうチケットを切った後なのに、終了時間だからまた明日来てくれと言われてしまった。
帰りの渡し舟の中には、博物館に勤めていると思われる人たちも乗っていて、
世間話に花が咲いているようであった。
昼間のピザとパスタが多くて全然お腹が空いてないのと、疲れたのとで、今日も夜は食べに出ないことに。
近くの売店でビールを買った。妻はヨーグルトを買ったのだが、
店を出てからスプーンが付いてないことに気が付いた。
というか、スプーンとかストローとか付けてくれるのは日本ぐらいのような気がする。
日本のコンビニでヨーグルトやプリンに付けてくれる小さなプラスチックのスプーン、
ああいうの、海外では見たことないなぁ。
自分としては、飲めばいいやんと思うが、妻としてはそういうのは大事なことらしいので、
結局、ホテルのバーでスプーンを借りた。
ビールを飲んでたら、半分も飲まないうちに眠ってしまった。
グダンスクでは、日本人をほとんど見かけない。そもそもアジア系の人自体もほとんど見かけない。
ポーランドも、ワルシャワくらいなら日本人にも馴染みがあるが、
グダンスクまではなかなかやって来ないのかも。
2009年9月23日
6時に起き、ホテルの朝食を食べてから新幹線で東京へ。
東京駅で成田エクスプレスに乗り換えて成田空港へ。
成田エクスプレスは高いので、今まで京成線ばかり利用していたのだが、
新婚旅行なので奮発した。京成で行くと成田空港は田舎の果てという感じだったが、
さすがに特急は速い。すぐに到着した。
空港でひとまず1万円だけポーランドの通貨ズロチに両替。
恐らくここより現地のレートの方が良いと思うが、
行くのがポーランドの地方都市で、しかも到着が夕方なので、念のため少しだけ換えておくことにした。
空港内で寿司を食ったが、意外とちゃんとしていて美味しかった。
そんなこんなで時間を潰しているうちに搭乗時刻になった。
機内ではまずポーランド語を暗記。といっても、
ジェンクェン(ありがとう)、ジェインドブリィ(こんにちは)、だけだが。
どこの国に行っても、ありがとう、こんにちは、の二語だけは絶対に現地の言葉を覚えた方がいい。
英語で言うのとは全然反応が違ってくる。
その後は、塩野七海「ローマ人の物語」の文庫の最近出たのを読んだり、テトリスをしたり、
映画を見たりして過ごした。観た映画は「Dead Poets Society」(邦題:いまを生きる)。
これは凄くいい映画だった。思わず詩でも作りたくなる。
ロビン・ウィリアムズ演じるキーティング先生が熱い。魂が揺さぶられる映画だ。
11時間ほどの飛行の後、コペンハーゲンへ。
コペンハーゲン空港について、まずそのデザインの洗練されているのに驚いた。
板張りの床からお客さん用の椅子や、天井までもがスタイリッシュで美しい。
荷物を載せるカートでさえ、曲線を上手く使ったお洒落な形をしている。
こちらでは、何でもデザインが洗練されていることが当たり前なのかもしれない。
EUではシュンゲン条約により域内の交通が自由化されているので、
入国審査はコペンハーゲンで受けることになる。乗り継ぎ時間が短くて少し不安だったが、
特に問題もなくグダンスク行きの飛行に乗ることができた。
1時間ほどの飛行でレフ・ワレサ・グダンスク空港到着。ワレサ議長にちなんだ名前が空港名に付いている。
両替所で日本円を扱っていたので、2万円両替した。
さて、空港から市内へのバスに乗ろうと思ったのだが、バスが全くわからない。
地球の歩き方にはB線のバスに乗ると書いてあるが、
番号が書かれたバスばかりで、Bなどという表記はバスにも停留所の時刻表にも載っていない。
時刻表もポーランド語で全く読めない。
しばらくBのバスが来ないか待っていたが、一向に来る気配が無いので、
近くを通りかかったおじさんに聞いてみた。すると、時刻表を指さして210番のバスに乗ればいいよ、
と教えてくれた。次のバスが来るのは20分後である。
そのおじさんに、自分はタクシー運転手で、空港まで客を乗せてきたばかりで、
どうせ今から市内に戻るので、35zlで乗せて行ってあげようと言われた。
いや、バスに乗るからいい、と言ったら、じゃあ30zlならどうだ、安いもんだろ、と言われたので、
乗せてもらうことにした。ちなみに1zl=35円くらいである。
地球の歩き方によると、タクシーで空港から市内まで乗ると普通は50zlくらいかかるらしい。
運転手さんは英語が達者で、ソポトは良い町だから行った方がいいとか、
無機質な集合住宅みたいなのが所々にあるが、あれは共産主義時代に建てられたもので、
あの頃は人間は働くだけの動物としか考えられてなかった、とか、
このあたりは小さなお店が沢山あるので買い物には良いとか、色々と教えてくれた。
ホテルに到着したら、妻が運転手さんにお礼を言って握手をしていた。
その様子を見て、妻にとっては今回が初海外だけど、意外とすぐに慣れるかもしれないなと感じた。
それにしても、空港からのタクシーはぼったくりが多いと聞いていたので、良い人に出会えて良かった。
泊まったのは、ホテルHanzaという、この町では多分一番良いホテルである。
部屋は落ち着いた品のある内装で、しかも運河に面した部屋で眺めが素晴らしい。
ネットで安く予約したので、道路側の景色の良くない部屋になる可能性もあったが、
非常にラッキーであった。
少し休んでから付近へ散歩に出掛けた。疲れもあるので、外に食べに行くのはやめて、
パン屋さんでパンとサラダ、酒屋でビールとポテチを買ってホテルに戻った。
時差のせいで眠いので、風呂に入ってから9時には就寝。
2009年9月22日
忘れ物が無いか確認の上、昼頃に新婚旅行に出発。とりあえず日本円を夫婦で25万円、ユーロを400ユーロ、
ドルを250ドルほど、後はクレジットカードを持っていくことにした。
経験から言うと、レートは悪くても、やはり何といっても現金が一番便利である。
クレジットカードは交換レートが良い上にどこでも通用するが、スキミング被害に遭ったりすると嫌なので、
名の通ったデパート等でしか使いたくない。それと、小さな店で値切ったりする時には、
現金で払うから安くしてくれと言えば結構効果がある。
金沢駅で海鮮丼を食べる。しばらく刺身は食べられないだろうからね。
特急で越後湯沢まで行き、新幹線に乗り換えて関東へ。
北陸本線やほくほく線沿いでは、北陸新幹線の高架が着々と建設されている。
開業したら東京方面には劇的に利便性が良くなるだろうなぁ。
西側も大阪に接続すればすごく便利になるのだが…。
まぁ、その頃には金沢には住んでないかもしれないけど。
晩は妻と鉄砲さんのお店を訪れ、牡蠣鍋、鰻、鯉などをご馳走になった。
ご近所さんの、三日月さん、angry chairさん、松本さん、
それにバイトの兄ちゃん、おねえさんも一緒に飲んで楽しい時間を過ごさせてもらった。
2009年9月21日
明日からの旅行に備えて、ポーランド語やデンマーク語の会話を調べたり、
バスの乗り方を調べたりした。荷物も詰めた。
民主党新政権、補正予算の凍結・見直し、シーリングの撤廃、複数年度予算を検討と、良くやっていると思う。
どれも自民党政権では絶対に実現出来なかったことである。この調子で頑張ってもらいたい。
ただ、亀井郵政・金融担当相が気懸かりだなぁ。ミスキャストとしか言いようがない。
連立を組んだ手前、閣僚には起用するが、一番問題を起こしそうな所に就けて、
実際に問題を起こさせてさっさと辞めさせるつもりかな。小沢さんならそれくらいの事は考えそうだが。
2009年9月20日
妻といつもの温泉へ。今日はエンジンの調子がいまいちだった。
前回は非常に良かったのになぁ。
何となく、最初のエンジン始動がスムーズだとその日はずっと好調、
エンジン始動で少し手間取るとずっと悪いような気がする。
今度、プラグを磨いてみるか。
始動のコツも何となくわかるんだが、ごくたまに手間取って何度もキーを回してしまうことがある。
刺身が食べたいと妻に言ったら、晩は秋刀魚の刺身を用意してくれた。
刺身にしても焼いても美味しい。秋刀魚は偉大だ。
亀井郵政・金融担当相が、
中小企業や個人を対象とした銀行借り入れの返済猶予制度を本気で実施しようとしているらしい。
滅茶苦茶だな、この人は。
鎌倉時代の徳政令や江戸期の棄捐令が経済にどれだけ弊害を与えたか理解しているのだろうか。
新規融資が止まれば元も子もないし、一番の問題は、こういう政策を一度でも実行してしまうと、
それが前例となり、今後同様の事態になった時に借りている人がみな返済猶予を希望し、
安易に実行され、モラルの崩壊を招くことである。
開いた口が塞がらん。
「官僚たちの夏」の最終話を見た。何というか、時代錯誤なドラマだよなぁ。
当時と現在で状況が違うので、現在の考え方を適用するのは間違いかもしれないが、
国際競争力の無い産業が衰退するのは当然だろ、という目で見てしまうから、
どうしても共感できない。保護主義の行き着く先は現在のアメリカ自動車産業である。
沖縄返還と繊維交渉を天秤にかけたのも、国益を考えれば沖縄返還に重きを置いて当然と思える。
まぁ、これも本当は当時の常識を念頭に置いて考えなければならないことではあるが。
2009年9月19日
妻と和牛専門の焼肉へ。結構いい値段したなぁ。旨かったけど。
真保裕一「ホワイトアウト」を読んだ。テンポが良くて引き込まれるけど、
主人公がちょっと超人的過ぎるのが気になった。
映画では織田裕二が主人公で敵のボスが佐藤浩市だったが、
この原作では、主人公は強靭な精神力を持つ男臭い人物なので、主人公が佐藤浩市でもいいくらいだと思う。
2009年9月18日
なんか色々と用事が入って、旅行前に終わらせるつもりの仕事は終わらなかった。
でもあと少しなので、帰ってきてから何とかしよう。
ここんとこ連日帰宅が深夜0時頃だったので、今日は早めに切り上げて9時くらいに帰宅した。
2009年9月17日
今日も仕事。
ダニエル・キイス「クローディアの告白 上・下」を読んだ。
忙しいと言いつつ、気分転換に結構本は読んでしまう。
読んでいる間、ずっとモヤモヤしていて最後に謎が明らかになってスッキリするのだが、
いまいち盛り上がりに欠けるな。まぁ、実話なんだから仕方が無いか。
クローディアに振り回されて苦労する著者に同情を禁じえない。
2009年9月16日
一日中、仕事。新婚旅行前に終わらせなきゃいかん仕事がギリギリ終わりそうにない。
困ったもんだ。
新婚旅行はパソコンを持たずに行く予定。相場をやっていたら、
ネットから切り離されて旅行するなんて考えられなかった。
相場に対してはなかなか気分が盛り上がってこない。
でも、旅行から帰ってきたら、ぼちぼち取り掛かろうかと思う。
2009年9月15日
まだ山の気分から抜け切れない。仕事中にも、ついボーッとしてしまう。
12月くらいまで忙しいので、とりあえず山はまた来年だな。
奥穂〜西穂縦走は来年の7月下旬あたりに再挑戦しようという話になった。それまでは体力増強に努めよう。
でも、1月か2月くらいに医王山あたりで雪中ビバークの練習でもするかも。
ネットで山の地図などをつい見てしまう。いつかやってみたいのは、
富山市内(泊)→(バス)→立山(室堂)→浄土山→竜王岳→鬼岳→獅子岳→五色ヶ原→平ノ木小屋(泊)
→南沢出合→船窪乗越→船窪小屋(泊)→船窪岳→不動岳→南沢岳→烏帽子岳→烏帽子小屋(泊)
→三ツ岳→野口五郎岳→真砂岳→鷲羽岳→三俣山荘(泊)
→三俣蓮華岳→双六岳→樅沢岳→槍ヶ岳→槍ヶ岳山荘(泊)
→南岳→大キレット→北穂高岳→涸沢岳→穂高岳山荘(泊)
→奥穂高岳→ジャンダルム→天狗のコル→西穂高岳→(ロープウェイ)→新穂高温泉(泊)、
というコース。途中で疲労回復や天候不順のために停留することを考え、予備日を2日入れると、
10泊11日ということになる。
しかし、これだけの休みを取るのは難しいだろうなぁ。
夏に四国の別荘に行かなければ可能なんだが、しばらくは別荘も手が掛かりそうで、
毎年夏は行くことになりそうだし。
2009年9月14日
前穂〜奥穂間の吊り尾根で更に二人亡くなられている。
12日に上高地から入山したようなので、自分達と全く同じルートと日程である。
一人が滑落し、もう一人が助けに行こうとして凍死したようだ。
みるみる体温が奪われて行くあの状況では、滑落した時点でほぼ助からない。
助けようとすると二次遭難するので、厳しいようだが、
助かった人は山小屋まで行って救助を頼むしかない。
それにしても、前日にジャンダルムで1人、救助ヘリの墜落で3人、12日に2人、13日に1人と、
今回の山行の前後に穂高周辺で7人も亡くなっている。ちょっと異常な多さだな。
近年、山で(特に中高年の)遭難が増えていて、
覚悟や経験や装備などが不十分のまま安易に難度の高い山に登ろうとするからだと非難の声が聞こえてくる。
わざわざ命の危険のある場所に行くのだから、何があっても自業自得で、救助なんかする必要は無い、
などという極論を述べる人までいる。
しかし、事故が起きる原因が、実力や装備が不足していることだけとは言い切れない面があるのも事実である。
どんな熟練者でも事故に遭う確率がゼロではないのが山の現実であると言える。
自分は今回は命の危険までは感じなかったが、それでも同じルートを同じ条件で1000回くらい歩いたら、
一回くらいは死んでいたかもしれない。
ジャンダルムの救助ヘリの事故で、
救助を求めていた登山者を非難するような意見をいくつかネット上で見かけたが、
救助の際の事故は救助活動の問題点として議論すべきであり、
登山者が遭難したことはヘリの事故とは別の問題として考えるべきである。
そもそも、自業自得だから救助などするなというなら、海水浴で沖に流された人や、
バイクで事故った人も助けなくてよいということになる。
ただ、今回、救助ヘリでなくなられた方や上記の凍死された方のケースのように、
遭難した場合には自分だけの問題では済まず、他の人の命をも巻き込んでしまう可能性が高いので、
安易な登山でリスクを増やすことが無いように心するべきなのは当然だろう。
100%は無理にしても、事故の確率を限りなく減らす努力を怠ってはならないと改めて感じた。
自分も、ついつい、いい加減になってしまうので、反省しないといけない。
2009年9月13日
出勤したが、仕事に身が入らない。つい、強風の吹き荒れる奥穂の稜線に心が行ってしまう。
ちょっと考えてしまうのは、今回は岳沢から登ったので事なきを得たが、
もし涸沢から登っていたらどうなっていたかということである。
二日目の朝、西穂への縦走は無理にしても、せめて帰路は奥穂を登って岳沢から下りようと思い、
凍結した危険な道を進んでいたのではないか。もしそうしていたら、小屋までは風も大して強くないが、
稜線に出た瞬間に猛烈な風に遭遇したことになる。徐々に風が強くなるなら対応できるが、
滑り易い路面で急に強風に遭遇したら滑落していた可能性もゼロではない。
山頂まで残り30分で行けるところを諦め、別ルートを楽しまず、来たのと同じ道で帰ることになろうとも、
撤退すべき時は撤退するべきだということである。
恐らく今回のメンバーならそういう状況でも撤退はしたと思うが、涸沢から登った場合には、
小屋から奥穂へ向けて稜線に出る瞬間が強烈な風との最初の遭遇になるので、
様子を見に行っただけでも危険だったかもしれない。
2009年9月12日
05:00 起床。予報は晴れの筈だが、雨と風は昨日とあまり変わらない感じである。
ガスも出ている。西穂への縦走路を行く場合、余裕を見て西穂山荘まで10時間とすると、
遅くとも6時半には出発しないといけない計算になる。実際に6時半まで様子を見たが、
状況は特に変わらず。最初に決行条件とした、天候、視界、路面の乾燥状態、風の強さの、
全てが不可ということで、縦走路は断念。涸沢経由で上高地へ下りることにした。
7時頃、どなたかお医者様はおられませんかと山小屋の人が呼びかけていた。
今回同行した友人の友人が医者なので、名乗り出たところ、
山小屋の近くで滑落した人が発見されたので診てもらいたいとのことであった。
これによりしばらく待機となったので、昨日の本の続きを読んだ。滑落した方は既に亡くなっていたそうだ。
奥穂への登山道は凍結していて岩の表面に氷が張っていたらしい。滑り易かったのだろう。
あと、一昨日にジャンダルムで遭難した方も亡くなられたと聞いた。
山における死というものをこれだけ近くで感じたのは初めてである。
08:40 亡くなった方の手続きも終わり、下山開始。雨は上がったようだ。ザイテングラートを下りて涸沢へ。
涸沢カールの中に入ってしまうと風も大して強くない。そのうち晴れ間も出てきた。
10:20 涸沢小屋着。前穂から北穂の雄大な景色を眺めながら、穂高岳山荘のお弁当のちらし寿司を食べる。
単体でも美味しいと思うが、美しい景色、運動した後の空腹、適度な塩気、美味い条件が揃っている。
雲がかかっていて、頂上まで見えるのが前穂だけなのが残念。反対側を見ると蝶ヶ岳と常念岳が見える。
妻と二人で涸沢小屋あたりで泊まるのもいいかもしれない。
運動は苦手なようだけど、ここまでなら上高地からそれほど高低差は無いので歩けると思う。
10:40 涸沢小屋を出発。本谷の楽なコースではなく、パノラマコースで戻ることにした。
所々荒れた箇所もあるが、特に問題にはならない。
11:50 屏風の耳に到着。360度の絶景である。槍が一瞬だけ見えたが、奥穂はずっと雲がかかっていた。
12:10 しばらく景色を楽しんで、出発。膝が笑って辛いが、頑張って下りる。
14:20 徳沢に下山完了。怪我も無くて良かった。今回は山の厳しさを垣間見たような気がする。
晴れてれば何の問題もないのだが、悪条件を考えると、もうちょっと防寒対策を考えた方がいいかもしれない。
あと、もう少し体力をつけた方が安心できるような気がする。
16:00 上高地着。
友人たち二人は松本から帰るので、ここで別れて自分は平湯温泉行きのバスに乗った。終点の平湯温泉で下車。
ここで高山行きのバスに乗り換えるのだが、乗り換え時間が30分ほどある。
実はバスターミナルの三階は温泉になっているのである。数十分に600円払うのは高いような気もするが、
今はその価値があると考えて入浴した。10分で体を洗って10分だけ露天風呂に浸かったが、
めちゃくちゃ幸せな気分になった。茶色い湯の華が一杯ついている良い温泉だった。
急いでバスターミナルに戻り、高山行きのバスに乗る。この高山から富山までがもの凄く乗り継ぎが悪く、
猪谷という駅で1時間半ほど待たされた。待合所に本棚があって何冊か置いてあったので、
その中から、エマ・テナント「続 高慢と偏見」を選んで読んだ。
途中で電車が来たので中断したが、あの内容なら特に続きを読むこともないな。
富山駅でも結構待ち時間があり、結局、金沢駅に着いたのは0時を過ぎていて、
タクシーで自宅まで帰ってきた。
2009年9月11日
04:10 起床。寝坊してしまった。急いでコンビニで、ネギトロ巻き、おにぎり二つ、パンを二つ、
チョコレート1枚、カロリーメイト二箱、お茶3リットルを購入。
04:30 松本駅で友人、友人の友人と合流。今回はこの3人で行動する。
04:40 始発電車で松本から新島々へ。車内でネギトロ巻きを食う。ホテルで貰った朝刊を見ると、
ジャンダルムで登山者が動けなくなり、
救助のヘリが墜落して乗っていた人が3人死亡したという記事が出ていた。
05:10 新島々でバスに乗り換え、上高地へ向かう。
06:30 上高地着。かなり雨が降っている。明日の予報は晴れなので、
ひとまず穂高岳山荘までは計画通り登ることにする。ジャンダルム周辺が現場検証のため、
奥穂から西穂への縦走路は通行できないかもしれないという情報を聞いた。
07:00 上高地を出発。岳沢に沿って登る。雨が嫌だ。
08:50 岳沢ヒュッテ跡に到着。せめて屋根くらい残っていて、雨宿りしながら休めるかと思ったが、
石垣しか残ってなかった。仕方が無いので休まず先に進む。
ここから鉄梯子や岩場の鎖場の連続で一気に高度が上がり、空気が薄くなっていくのが体感できる。
普通に呼吸していても浅い呼吸のような感じである。森林限界を超えたあたりから雨と風が酷くなってきた。
服を4枚重ね着してもどんどん体温が奪われていく。眼鏡を拭いても雨で一瞬で見えなくなる。
何度かルートを外れそうになりながらも何とか登っていく。素手なので手が冷えてくる。
滑落したらその瞬間に一貫の終わりである。手で岩を掴みながら慎重に登っていく。
先に進むことが最優先と考え、前穂高岳は登らずに側面ルートを通り、吊り尾根へ。
岩陰で少し休憩したら、体の震えが止まらなくなった。チョコチップパンを少し胃に入れてすぐに出発。
岩陰といえど風は強い。止まっているだけで体温が下がっていくので、動き続けるしかない。
動いていれば体の震えは収まる。ここから先はもう無心に岩場をよじ登った。
どれだけ時間が経ったかわからない。
13:00(推定) 風と雨が轟々と吹き荒ぶなか、時間の感覚が無くなった状態で、
ふと気付くと大きなケルンの横を通過。そこが奥穂高岳山頂であった。
前を歩いている友人は山頂の標識にすら気付かず通り過ぎて行った。時計を確かめる余裕も無く、
登頂時刻は推定である。山頂で立ち止まることもなく、先を急ぐ。
と、山頂を越えて稜線の向こう側に出た途端、猛烈な風が吹いていた。
雨粒が顔に刺さって痛い。霰が顔に当たって痛いことは金沢でも良くあるが、
雨粒が痛いというのは初めてである。風速何十メートルくらいあるのだろうか?
進むには危険を感じる風速だが、止まっていると低体温で死ぬしかないので、
風で煽られないように手で岩を掴みながら慎重に進む。山頂から鎖や梯子で一気に200mほど下りて、
やっと下の方に穂高岳山荘の赤い屋根が見えてきた。
13:30 穂高岳山荘着。体力はまだ残っているし、握力も足の力も落ちていないし、
意識もしっかりしていたので、命の危険があるほどではなかったが、
もし奥穂を越えてから道を間違えたりして、あと2時間あの強風の中にいたら命は無かっただろうと思う。
実際、視界も良くなく、一度道を間違えかけた瞬間もあった。低体温症で力が入らなくなったら、
もう小屋まで辿りつけない。あの鎖場では、同行者が背負って運ぶのも無理である。
中高年のあまり体力の無い登山者で、奥穂を登り切った時点でへばってたら、もう進退窮まるだろうなぁ。
ただ、奥穂を越えてからの強風でも、滑落する危険は特に感じなかった。
やはり素手で岩を掴んでいると相当の安心感があるし、
実際にも手袋をしているより確実にグリップできると思う。
ただ、指先がどんどん冷えていくのが問題だが。
小屋では、いくらストーブにあたっても体の震えが止まらなかった。
暖かいお茶を飲んでようやく人心地ついたが、それでも震えが収まらない。
風邪を引いたような少し違うような、子どもの頃、
一日中プールで遊んで帰ってきたときになったような喉の痛みがある。
服を着替えて、乾燥室の温風の吹き出し口で暖まっていたらようやく震えが止まった。
やはりそれなりに体温が低下していたようである。
今回、何度か道を間違えかけたが、3人のうちすぐに誰かが気が付いて修正することができた。
悪条件の場合には複数で行動することが単独行に比べて大幅にリスクを軽減することを実感した。
晩ご飯を食べたら急激に体の調子が良くなり、体調は完全に回復した。
食事の後は、ストーブにあたりながら、山小屋の本棚にあった、
三俣山荘撤去命令を撤回させる会「山小屋はいらないのか」、羽根田治「ドキュメント滑落遭難」を読んだ。
「山小屋は…」を読むと、単なる民宿とは同列には論じられない、
山における山小屋の位置付けというものが良く分かる。
「ドキュメント滑落遭難」も面白い。様々な滑落の実際例と背景が載っていたが、
印象に残ったのは、本当に危険な場所では意外と事故は起こらない、
危険箇所を過ぎてホッとした所で事故が多発する、ということ。
10年以上前の本だけど、ツアー登山の問題点なんかも指摘されている。
読んでいる途中で消灯時刻になったので就寝。
2009年9月11日
今日から日本アルプスへ登山に行ってくる。最近の山行は今回の登山の準備運動のようなものである。
午後早めに仕事を切り上げ、松本へ向かった。金沢−松本って本当に連絡が悪い。
夜にようやく松本着。友人と合流して蕎麦を食った。ホテルに戻り、風呂に入って9時には就寝。
今回、予定しているのは、上高地から岳沢に沿って登り、前穂高岳に寄って奥穂高岳に登り、
穂高岳山荘で一泊、翌日は再び奥穂高に登り、ジャンダルム、西穂高岳と縦走し、
時間が間に合えばロープウェイで新穂高温泉に下りる、
ロープウェイに間に合わないなら西穂山荘に泊まって翌日下りるというルートである。
奥穂〜西穂縦走は一般登山道の中では最難関と言われており、若干不安を感じないでもなかったが、
今回同行する友人とその友人が熟練者であることと、縦走開始の時点で、
雨が降っているかガスが出ているか岩が濡れているか強風が吹いているかの、
どれか一つでも悪条件があれば中止するという条件で決行することとなった。
天気予報は、明日は雨だが明後日から晴れる予報になっている。
2009年9月10日
陳舜臣「阿片戦争 上(滄海編)・中(風雷編)・下(天涯編)」を読んだ。
いつも職場で昼ご飯を食べる時に読んでいるのだが、
昼飯はいつも10分くらいで食べてしまうので、三巻読み終るのにかなり日数が掛かってしまった。
本書には、林則徐や関天培などの実在の人物に混じって、先の時代を見通す商人、連維材や、
日本からの漂流民、石田時之助など、架空の人物が数多く登場し、
当時の時代の雰囲気が臨場感たっぷりに描かれている。その描き方から、読み始めた時には、
どこまでがノンフィクションでどこまでがフィクションか分かり難いような気がしたのだが、
ネットでアヘン戦争の実際の経緯を調べてみると、
この作品中でも事実関係は相当緻密にフォローされているということがわかった。
陳舜臣氏の小説を読むと、いつも氏の、登場人物に対する非常に温かい視線を感じる。
この小説「阿片戦争」にしても、侵略するイギリス側の人間や清朝の腐敗した高官たちでさえ、
時間の流れの中でそれぞれの人生を生きる人間として描かれている。
それだけでなく、戦争でゴミのように死んでいく一兵卒一人一人にも、それぞれにドラマがある、
まさに、人に歴史あり、という言葉をしみじみと感じさせてくれる小説であった。
2009年9月9日
妻が秋刀魚を焼いてくれた。
秋の秋刀魚はなぜこんなに美味いんだろうか。ご飯がいくらでも食えるな。
2009年9月8日
晩まで仕事である。今週末に日本アルプス、今月下旬に新婚旅行に行くのだが、
それまでに仕上げなくてはならない仕事があり、追い込み状態である。
家に帰ったらマツムシが壁にとまっていた。たぶん帰ってくる時に一緒に家に入って来たのだろう。
見たのは子供のとき以来だな。個人的にはマツムシの羽の折り畳まれ具合はちょっとツボである。
外に逃がしてやった。
ネットで照合してみたところ、実はマツムシではなくアオマツムシであった。
江戸時代に記録が無く、明治に入ってから初めて目撃されているので、外来種という説が有力らしい。
2009年9月7日
有休を取って、登山靴を慣らすために医王山に登ってきた。
バスで医王山スポーツセンターまで行き、9時に見上峠登山口から登り始めた。
と同時くらいに雨が降り出した。予報は晴れだった筈なのに…。
しばらく大きな杉の木の下で雨宿りするが、止む気配が無いので、諦めて進むことにする。
医王の里、西尾平、シガラ首、覗を経由して大沼へ。覗といっても霧と雨のせいで何も見えず。
ここから急傾斜の岩場(鎖場)を鳶岩まで登るのだが、雨天時はかなり危険とのことなので、
大沼の休憩所で待機。大沼はなかなか神秘的な沼である。
沼の中で水面上に出ている岩が浮いているように見える。
娘が引きずり込まれて蛇になったという話があるらしいし、泉鏡花の小説にもここの沼が出てくるらしい。
何も暇潰しの道具を持って来てなかったので、昼飯を食べた後は休憩所のベンチで1時間ほど昼寝した。
起きると雨が止んでいたので、まずは三蛇ヶ滝へ。小ぶりだが、なかなか良い滝である。
滝を見終わり、いよいよ鳶岩へ。45度くらいの急斜面の鎖場を100mほど登る。
後ろを振り返ると思わず足がすくむ。滑り落ちたら確実に死ぬが、岩場には凹凸が結構あるので、
三点支持を心掛ければ問題は無い。鎖は念のために持っておくというくらいで。
登山開始からここまで特に疲れる場所も無い割には見所が多く、
この山域は子供連れで来るには丁度良いかもしれない。もちろん鎖場は無理だが、迂回ルートがある。
鳶岩から白兀山へ向かうあたりで、また雨が、しかも今度はかなり本格的に降り出した。
雨宿りする場所も無く、全身ずぶ濡れである。白兀山頂ではお地蔵さんにお参りするだけで先に進む。
休みたいが休む場所も無い。
途中で、女性二人と女の子一人が立ち往生している現場に出くわした。
どうやら小学校低学年の遠足か何かのようで、みんな先に行ってしまい、
女性の先生二人と女の子が取り残されたようである。女の子は疲れて動けなくなってしまい、
意識も朦朧としているようだ。携帯も圏外で先行集団には連絡がつかない様子。
手助けして下さいと頼まれたので、その子を背負ってしばらく歩いた。
途中から携帯の圏内になって連絡がつき、更にしばらくすると男性の先生が戻って来たので交代した。
詳しい事情はわからないけど、生徒が怪我をしたりした場合に背負って行けるように、
男性の先生を最後尾に配置するのは当然だと思うんだけどなぁ。
集団登山では、普通はサブリーダーが先頭を歩き、リーダーが最後尾を歩く。
しばらく歩くと夕霧峠の休憩場に出たが、休憩所には、はみ出さんばかりに小学生が密集して待機しており、
とても休むようなスペースは無さそうだった。仕方なく、ザザ降りの雨の中、先に進むことにした。
ここから奥医王山へ。特に問題なく山頂に到着。雨も相変わらずなので先を急ぐ。
山頂から一気に谷に下り、沢の中をジャブジャブ下っていく。かなり危険なので初心者は禁止の道である。
途中から沢を離れてまた一山登り、そこから下って栃尾集落跡に出た。途中で雨は上がった。
下山は15時半くらい。
誰もいないので、泥だらけの上着とズボンを脱いで水道で洗った。
しばらく休憩し、車道をテクテク歩いて下る。丁度、いつも行ってる浅野側温泉湯楽の湯の近くに出たので、
ゆっくり温泉に入り、湯涌温泉の付近まで歩いて、そこからバスで帰ってきた。
上にも書いたが、医王山には初心者向けではないコースも所々にあるが、
それ以外は歩き易いので子供連れにもちょうど良いと思う。
林道が多く走っていて、今日通った場所のうち、見上峠登山口、医王の里、西尾平、夕霧峠は直接車でも行ける。
2009年9月6日
一ヶ月ぶりに愛車を動かした。
いつも間を置くと乗り始めに調子が出ないことが多いのだが、今日はなぜかやけにエンジンの調子が良かった。
理由はわからんけど機嫌が良いようだ。
現代の車には調子もへったくれも無いんだろうけど、こっちはいつもご機嫌を取りながらである。
距離計の調子が悪いのでメーターを取り外した。どこが悪いかチェックしないといけないんだけど少し面倒だな。
NE555あたりでパルスジェネレータを組んで動作チェックをするか。部品箱を探せば部品は多分ある筈。
2009年9月5日
妻と町に出掛けた。香林坊で友人夫妻と合流。
金沢の名物料理でハントンライスというのがあるので、食べに行こうということになっていたのである。
木倉町のあたりに有名なお店があるらしい。どんな料理かと思ったら、
そのハントンライスなるものは、オムライスに白身魚のフライが乗っているだけであった。
まぁ、オムライスと考えて食べても美味しかったので、良いのだが。
食後はダイワで「大正〜昭和を描くキルト展」を観た。
友人夫妻と別れ、金沢駅近くの登山用品店へ。新しい登山靴を購入した。
店員さんにピッタリのを選んでもらい、ソールもきっちり調整してもらった。
来週中に近くの山に登って慣らす予定。50リットルのリュックも購入。
今までは機動力最優先の軽装備で山小屋泊か星空の下で野宿しかしたことないけど、
機動力を少し犠牲にして、テントと調理器具を携行すればかなり自由度が高まる。
これは日本アルプスには持って行かないけど、白山の各ルート制覇に使うつもり。
妻と金沢駅の不室屋カフェでお茶をして帰ってきた。
2009年9月4日
職場にお客さんが来たので片町へ。いつもの割烹の後、いつものお店へという、いつものコースである。
タラバ蟹、松茸と、徐々に食材も秋味になってきた。ノドグロも脂が乗って美味い。
しばらく前に知り合いが脳溢血で倒れ、しばらく面会も出来ない状態だったが、
回復してきてリハビリに入っているとのこと。その人は一人暮らしなのだが、
倒れた時にちょうど傍に人がいたので、すぐに病院に運ばれて命は助かったそうだ。
脳溢血なんかになったら、助かるか死ぬか、もはや運の問題である。
2009年9月3日
昨日と同様、一日仕事だけ。
2009年9月2日
一日、仕事で終わる。
2009年9月1日
佐野眞一「甘粕正彦 乱心の廣野」を読んだ。寝る前に少しずつ読んでいたので時間がかかったが、
ようやく読み終わった。
甘粕正彦といえば、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、
それに7歳の甥の橘宗一を虐殺し、
出所後は満州に渡り、満州帝国の闇に隠然たる影響力をもって君臨した人物、
という程度の予備知識しかなかった。しかし本書を読むと、世間一般に流布している、
いわゆる主義者殺しという狂信的な甘粕正彦のイメージはかなり現実と乖離していることがわかる。
甘粕自身も、彼につきまとう主義者殺しのおどろどろしいイメージを積極的に利用していた節が窺えるが、
実際には彼は非常に合理的で理知的な人間であり、一方で、
アウトサイダーの立場に身を置かねばならない我が身を顧みて鬱々とする、
極めて人間味のある人物であったようだ。
大杉事件についても、伊藤野枝の検死報告書や様々な証言などの傍証から考えると、
甘粕が何らかの理由で罪を被った可能性が高いように思われる。
佐野氏は、他の著書と同様、関係者への度重なる取材により過去を浮き彫りにしようと試みているのだが、
満州時代の甘粕を知る人の多くは故人になっており、
その次の世代を中心に取材せざるを得ない状況になっている。
もう後10年経てば不可能になったであろう取材も多く、
もし佐野氏が本書を書かなければ、甘粕正彦の実像は歴史に埋もれてしまったかもしれない。
もちろん、甘粕正彦の実像を正確に記述している本も過去にはあるのだが
(村上もとかの漫画「龍-RON-」でも魅力的な人物として描かれている)、
ある程度、固定化されてしまった人物評価は、
それなりに売れている作家の著作や、有名な学者の研究がないと覆すのは難しいものである。
そういう意味では、甘粕という人物の再評価という点で著者の果たした役割は大きいと思う。
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