物質と精神

2005/10/22

ちょっと趣向を変えて、精神世界の可能性について考えてみる。

我々の住んでいる世界はまず物質で出来ており、物質は原子から出来ている。 原子は素粒子から出来ているが、その先はよく知らない。
この世界についての考え方として、この世の全ては物質のみから出来ているという考え方がある。 いわゆる唯物論の立場というものだ。 この世界観によれば、精神や意識も単なる物質の作用で生成されていることになる。 具体的には、精神や意識は脳細胞の働きによって出来ており、脳細胞が死ねば精神も意識も消滅する。 人間、死んだら終わりという考え方だ。

一見、何も矛盾は無いように見えるが、自我というものを絡めて考えると色々とおかしなことに気が付く。 例えば、自分と全く同じ分子構成を持ったそっくりな人間がいたとする。 物質の世界で考えれば両者を区別することは出来ない筈である。 しかし、自分からすれば「自分と他人」という区別が出来てしまう。 客観的に見れば両者は同じだが、自分の主観から見れば違う。 では主観とは何か? 主観を脳の働きである、と解釈すれば、それは既に客観でしかない。 そもそも唯物論には主観という考え方が存在しないので、議論にならない。

少しわかり難いので思考実験をしてみる。

舞台は遠い未来で、ナノテクを駆使して細胞レベルで手術が出来るようになっているとする。 ある細胞と全く同じ細胞を作成することも可能であるとする。 あなたは次の2つのうちどちらかを選択しなければならないとする。どちらを選ぶか?

A.あなたは脳細胞を含む体の全細胞を1つずつチェックされ、正確に同じものが作成され、 順に細胞一つずつ新しいものに置き換えられる。
B.あなたは脳細胞を含む体の全細胞を1つずつチェックされ、正確に同じものが作成され、 別個に人間が一体作成される。終わった後あなたは殺される。

世界が全て物質のみで出来ていると考えると、AもBも全く同じことである。 しかしBを選ぶ人はいないだろう。自分にとってAは体の細胞が全部入れ替わるだけで自分であるが、 Bは殺されることである。 なぜ自分にとってこのような違いが出るのか。物質が世界の全てという考え方なら、 Aを選ぼうともBを選ぼうとも変わりは無い筈である。

結局のところ、自分である、とか、自分ではない、とかいう視点、 つまりは自分という概念を認めると、物質の世界だけでは説明がつかなくなってしまう。 自分と他者を区別しているものは物質ではない何かという事になるが、 それを仮に魂と名付ければ、精神や意識は魂の作用と言うことが出来る。 個人的には「自分」というものの存在を信じるので、 上の議論から、物質とは別の、いわゆる魂の存在も信じている。
肉体が滅んだ後に魂も同時に霧消するか、物質と別の精神世界(いわゆる死後の世界)に戻るか、 他の人間に輪廻転生するかはわからない。

個人的には、精神世界が本当の世界であり、この世はオンラインゲームのようなものだと思っている。 ただし根拠は無い。 想像を進めると、ゲームと言うよりは教育プログラムという感じだと思う。 死ねばゲームオーバーだが、自殺すれば途中放棄という事で大きなペナルティーが課せられる。 目的は、逆境や順境などの色々な経験をすることによって魂を鍛錬することにある。 これはそのまま人生の目的とも言える。 仲の良い人たちと一緒に参加すれば、お互いに近くに生まれたり親子だったりもするだろう。 これが縁という事になるのかも。 まぁ、ただの想像で根拠も無いんだけど、縁とか業とか無意識とか走馬灯とかアカシックレコードとか神とか、 色々なものに自然な説明が付けられるので、個人的には確信に近い。 守護霊なんてのも、外から応援してくれてる知り合いと考えれば良いしね。 終わった後に、今回はそこそこ成長したなと思える人生を送りたい。

話は戻るが、主観と客観の問題は、そもそも哲学の発生理由でもある。 主観を認める立場からは唯物論に対して観念論が発展して行くのだが、不勉強なので詳しくは知らない。


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