そねっち(^−^)ノ さんの日記

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東京ゴム  2005/05/09(月) 20:08:01
 5月9日
売り方   枚数
岡地・・・・2065
岡藤・・・・ 579
ひまわり・ 1152
豊・・・・・・ 1358
丸紅・・・・・ 155
三井F・・・ 2229


買い方
三菱F・・・ 535
カネツ・・・1863
エース・・・ 278  ドテン・・

東京ゴム  2005/05/08(日) 00:26:05
 5月6日
売り方   枚数
岡地・・・・ 951
岡藤・・・・ 777
ひまわり・ 1140
豊・・・・・・ 1842
丸紅・・・・・ 153
三井F・・・ 2154
エース・・・ 446

買い方
三菱F・・・ 698   6054枚投げました・・・
カネツ・・・1886

日本の役割・・  2005/05/05(木) 22:51:16
 さて、長々と書いてきましたが、日本がかつて太平洋戦争で悪いことをした、日本の総理大臣は謝るべきだとの世論がありますが、はたして正しいことでしょうか?白人によるアジアの植民地政策に断固として戦った国は日本だけではないでしょうか。1858年(安政5)年の日米通商条約(不平等条約)にて奴隷国家に成り下がるところ、不断の努力により、借金をすべて返済し、白人国家と互角に渡りあえるまでになった先祖達に感謝しなければなりません。中国、韓国は日本の存在により、今日、独立国家としてありますが、そうでなければ韓国はロシア領にて消滅しており、中国は白人国家により分断されていたでしょう。相場と同じく歴史に「たら、れば」は存在しませんが、少なくとも中国、韓国からは感謝状をいただくべきだと思います。今日、中国では小さい頃より、反日教育がほどこされいます。日本人はかつて中国で悪いことをしたから殺されてもよいという教育です。このような教育を何年も続けていたら当然、日本人は悪人だと感じるのでしょう。
日本人は秀吉以来の伝統がありますから、教育しなくても優越感がありますが・・・・韓国へ観光に行きますと、かつて秀吉が悪いことをたくさんしたというガイドさんの説明を聞きました。日本人として恥ずかしかったです。

野蛮な欲望・・・  2005/05/05(木) 14:23:32
 マヤ・インカ文明、アフリカの文明、アジアの文明・・
この文明の地に、ヨーロッパが持ち込んだものは「大砲」という野蛮による支配だった・・・

その5続き・・  2005/05/05(木) 14:14:39
 1602年、バンタン沖でオランダはポルトガルとの海戦に勝利し、東南アジアで覇権をにぎった。次いで進出したイギリスは、東南アジアのオランダ覇権をくつがえせず、転じてインドと世界の他地域との貿易に力をいれる。
これ以降、アジアの南の全域は、17世紀のイギリス・オランダの東インド会社による支配から、19世紀フランスも加わっての3国による「植民地」領有支配にかけて、ヨーロッパ支配の強化というという形で、「世界史」に組み込まれることになる。
アメリカ大陸における金・銀の採掘と原住民の滅亡、アフリカ大陸での奴隷狩り、アジア大陸での征服と収奪は、ヨーロッパ資本主義の3つの前提だったのである。
アメリカ新大陸の「銀」は、アジア農民の生産する「胡椒」との不等価交換・収奪の材料となった。この「銀」の産出にアメリカのインディオが消耗しつくされると、ヨーロッパはかわりにアフリカ大陸の黒人を労働力商品(黒い象牙)として、アメリカ大陸に輸入した。16世紀末いらい、19世紀半ばまでじつに6000万人の黒人奴隷がつれさられた。
19世紀後半、アフリカでダイアモンドと金が発見され、ヨーロッパ列強は、今度はアフリカの植民地分割に、きそって進出することとなった。

世界史の構造・・その5  2005/05/05(木) 10:29:32
 1571年、スペインはマニラ(フィリピン)に、1557年、ポルトガルは中国大陸のマカオに本拠をおいた。はじめはマカオが中国・日本・東南アジアの中継貿易の中心だったが、71年以降メキシコ銀で支払うマニラが、華南・フィリピン・メキシコ・スペインを中継する、太平洋横断貿易港として、進出した。後に19世紀末新興のアメリカがスペインからフィリピンを奪った意味は、ここにある。

世界史の構造・・その4  2005/05/05(木) 10:13:40
 1497年、リスボンを出航したバスコ ダ ガマの率いる千艘の船隊は、喜望峰、アフリカ東岸メリンダをへて、アラブ人水先案内の助けでインド洋を横断し、98年5月インドのカリカット港に到着した。1508年、ポルトガルはディウでエジプト・インド連合軍を破り、以降1世紀のインド洋制海権をにぎった。翌1509年9月ポルトガル武装船隊はマラッカに到着したが、いったんインド西海岸ゴアに戻り、そこをアジアのポルトガル首都としたのち、11年7月再びマラッカにすすみ、そこを占領した。重要な戦略基地港に要塞を作り、ここに商業権と海軍力を集中するポルトガル方式は、19世紀まで「アジアにおけるヨーロッパ支配の原型」となったのである。

その3続き・・  2005/05/04(水) 22:03:29
 「新」大陸とはヨーロッパ人にとってのことで、もともとそこに居住していたインディオは、スペイン「征服者」から強制された鉱山労働で、次々にその肉体・生命を消耗した。
スペイン人にとってはインディオの人命ごときは物の数でもなかったので「銀」の生産費はほとんどゼロにまできりつめられた。
この結果、インカ帝国の人口は消滅し、今度はアフリカ大陸から黒人奴隷が輸入されるようになる。
それでヨーロッパはこの銀と引き換えに新大陸に輸出したものは、工業生産物(毛織物、毛織物製品)である。
スペイン産の毛織物は、ペルー、メキシコ、チリ、アルゼンチンなどに積み出された。
そこで、東インド貿易で「胡椒」を入手するには新大陸で「銀」を確保しなければならないが、それにはヨーロッパで「毛織物」を豊富にかつ安価に供給できる力をもたなければならない。イギリスはこの毛織物にをめざしてしゃにむに突進した。
こうして、ベネチア→ポルトガル→スペイン→オランダ→近代イギリスという覇権の推移がなされた。

世界史の構造・・その3  2005/05/04(水) 20:32:52
 アメリカ新大陸の発見はどういう変化をひきおこしたか。
それは「銀」についてである。

1520年代のメキシコ征服、特に1545年のポトシ銀山の開発以降、新大陸の銀および金は、世界経済構造に、根本的な変化を与えた。
16世紀後半、新大陸の金は世界産出量の60%、銀に至っては90%近くをしめたのである。

世界史の構造・・その2  2005/05/04(水) 15:00:06
 1492年、ジェノバの毛織物工の子コロンブスが、スペイン王女イザベラの後援で、アメリカ大陸を発見したこと。

1498年、ポルトガルのバスコ ダ ガマが、アフリカ南端の喜望峰を回ってアジアに至る新航路を発見したこと

このことによって、東西貿易の中心地がベネチアからポルトガルのリスボンに移る。
仲立ちのアラブ商人を抜きにしてヨーロッパ人が直接に東インド貿易をするようになった。
ヨーロッパ産「銀」は直接にアジアの「胡椒」と交換されリスボンでの安価な胡椒価格はベネチアの胡椒価格の崩壊を導いた。
フッガー家その他はベネチアをひきあげて、リスボンへ移動したが、ポルトガル王室の独占政策のもとに、ポルトガルが運んだ東方の物産を、ヨーロッパ各地に配給する地位に甘んずるほかなかった。

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