晩年ニートの成り上がり さんの日記

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GNO3  2012/05/25(金) 16:32:17
 ガンダム・ネットワーク・オペレーション3、略してGNO3はガンダムのネットワークゲームで、GNO1から数えて10年くらいの営業になります。それを辞めて2日経ちますが、滅茶苦茶さみしいです。心にぽっかり穴があいたようです。それだけ依存していたということでしょうか。これは「趣味」の問題でもあります。GNO3は趣味だったのでしょうか?勉学に充てる時間を削ってまでもするGNO3は趣味だったのでしょうか?そう考えると、とにかく時間が過ぎるのを待つだけです。いずれ、GNO3のない生活に慣れるのでしょう・・・。趣味ってなんだろう。放鳥されているトキのひなが巣立った、ってニュースがありましたけど、これなんか野鳥ファンから見ればすごく嬉しいニュースなんでしょうね。一般人的にも意義がありそうだし。私はどうも野心が強いようですね。学問を野心の道具にしようとしているのかもしれません。つまり、学問を趣味とは見なしていない、ということかもしれません。

平和とは何か?  2012/05/24(木) 07:55:54
 平和とは何か?それは倫理の伝承である。倫理そのものは、世代世代で知識としてインプットされている。しかし実践はされていないに等しい。「倫理の完全実践には不可能性がある」と認めたうえで、可能な限り、倫理を伝承しなければならない。論理というストックとは違い、倫理はフローである以上、伝承し続けなければならない。例え、倫理の実践が不完全であろうとも、倫理の伝承は未来永劫、続けられなければならない。

カントは、道徳とは理性からくる、と言ったらしい。
ヒュームは、道徳とは感情からくる、と言ったらしい。

これらは、現在でも論争が行われているらしい。(ウィキペディアによる)
論語で言う「自分がされて嫌なことは他人にするのは辞めましょう」という倫理は、理性による操作か、もしくは感情による操作か、今の私にはわからない。どちらにせよ、完全実践が不可能であろうとも、人殺しが絶対になくならないのであっても、「倫理、道徳」というフローは世代世代で伝承されなければならない。しかしながら、「倫理、道徳」は経験、体験、実体験によって強化・学習される。自分が嫌かどうかもわからないことを他人にしてよいかどうかの判断をつけるのは難しい。「頭を叩かれて痛い」のは、「頭を叩かれる」という体験をしたから、他人にしてはならないと経験する。これによって、「自分がされて嫌なことは他人にするのは辞めましょう」という道徳が強化される。平たく言えば、身をもって体験する道徳である。

経験は道徳に食い込んでいる。痛い目を見ないと、他人にやっていいことかどうかの判断が難しい、判断に困る、事態が起こる。これまでの私の読者の皆様は展開がお判りかと思いますが、二度と痛い目を経験することが事実上不可能な経験がある。「原爆が二度と使われてはならないかどうかは、君が原爆の被害に遭って来れば自明の理だ」という主張(原爆の被害を経験してくれば済む話だ)がナンセンスであることは明らかです。道徳はストックではなくフローです。道徳の文言そのものは確かにストックですが、道徳の実践においては不完全性、不可能性があるので、しつこいですが、道徳はフローと呼ばざるを得ません。水ものです。だから、完全実践不可能だからと言って、伝承を諦めては絶対にいけません。

しかし、「頭を叩かれたら痛かった」だから「他人の頭を叩くのはやめよう」という、日常のごくありふれた「経験・体験」から「自分がされて嫌なことは他人にするのは辞めましょう」という論語の文言を理解するのは比較的簡単である。(これでさえ不完全性、不可能性がある!)所が先の「原爆の被害を経験してくればよい」というナンセンスな、経験の再現要求に無理がある経験から導き出される道徳の伝承はどうすべきか?原爆の被害に遭うことは不可能であるにもかかわらず、痛みを身を持って体験する事の出来ない経験はどのように理解すべきか?今まで私は、当たり前のように、まず追体験する事を言ってきた。しかし、実体験と追体験では、説得力、被害印象の定着に明らかに違いが表れるのが、机上の理屈から明らかだ。つまり、語り部一世の説明は納得するけども、語り部三世の説明には「なんだかなぁ」であり、語り部十世の説明には「マユツバだ」との印象を受けるのではないか?実体験がもたらす説得力が文言にされ、語り部二世以降に伝承されるに従って、劣化、風化が起こり得るのは想像がつく。私が言いたいのは、「語り部の力量」が問題ではなく、「受け手側の力量」が問題なのである。あえて力量と言ったのは、子供から大人へと成長するにしたがって自然に身に付ける能力ではなく、外部から、教育などによって伝授される技術だからである。語り部が何をどんなに説明しようとも、受け手側に技術がなければ無駄である。では、それはどんな技術か?

抽象的には、「疑似体験、追体験も実体験や経験と同等なものと見なすという理性的把握」のことである。これは、語り部一世と語り部三世との説得力の違いを感覚的に持ってしまう受け手側による理性的操作、理性的作業になる。つまり、言葉の意味上、疑似体験と実体験は違うにもかかわらず、それらを同等とみなす訳だから、論理という理性により疑似体験を補強して、実体験に近づけなければならない。その為に、例えば、「戦争や核兵器は、人類の基本的人権を吹き飛ばしてしまうから、それは嫌だよね?」などの論理で補強しなければならない。受け手側は、疑似体験を実体験とは別ルートで、論理と言う理性で補強する技術が必要になる。今はこれ以上はわからない。


神がいて、平和をもたらす技術をもっているとするなら、それはかなり複雑な手法なのだろう。「問題」をバラバラに分解して、個別に解決策を見つけ出したりするのかもしれない。時計を分解して、部品をそれぞれ再構成したら自動車が出来上がった、みたいな現象も起こり得るのかもしれない。気を付けなければならないのは、人間は万能ではないので、個人個人に与えられた役割を一つ一つ成し遂げていくしかない。

解決策が抽象的に記述しつくされたからと言って、その抽象を形作る具体的事象にたいしては、コツコツと一つ一つ、個人個人が地道に作業しなければ、解決には至らない。


こんな私にも、問題意識は色々ある。その一つが、「疑似体験を実体験と同価値まで引き上げる方法を確立する事」である。今度、ゆっくりと、大きく、じっくり考え事をして、そのような問題意識を箇条書きに抜き出して、それらから逆算して、「具体的にはどのような学問を勉強しなければならないのか?」を来年の3月までには見当をつけておきたい。今の所、放送大学は選択肢から外れる気がする。日本大学通信部の哲学科かなぁ、と思っている。哲学という抽象と歴史学という具体が織りなす日本織物を見てみたいものだ。

フューチャリスト  2012/05/24(木) 04:55:01
 茂木健一郎『脳が変わる生き方』に、未来のことを考える人=フューチャリストというカテゴリー?があることがわかる。私はフューチャリストになろう。これだと、プロ・アマ問わず、というニュアンスが含まれるので、草学者にもってこいだ。そもそも、歴史哲学者とは、元来、フューチャリストではないだろうか?歴史哲学のある大きな意見の一つに、「歴史(過去)には法則性などない、見つけ出そうとしてはならない」というものがあるようですが、しかし私の意見としては、「同じ現象は二つとない」けども、「同じような現象は二つ以上ある」訳だから、やはり歴史の規則性、法則性を導き出し、つまり帰納して、そしてその規則性、法則性から未来(フューチャー)を!演繹的に予測すべきなのだ、と思います。これがまさしく、フューチャリスト=未来のことを考える人ではないでしょうか?

放送大学  2012/05/24(木) 04:01:57
 今、必死で計算したり考えたりしているのですが、結論として、来年4月から放送大学に入学しようかと思っています。なんとか今年中には借金を完済して、4月からの学費と老後資金の積み立ての両立が出来そうです。そして、なんと言っても、勉強時間の確保ですが、先ほど一気に決断しました。ガンダムのネットワークゲームを退会しました。思えば10年くらい続けたのでしょうか。このゲームにかなり依存していた自分を思えば、つまらない時間を費やしたなぁとため息も出ますが、内容の濃い、楽しい人間関係が築けた確信もあって、悲喜こもごも?です!これからは無駄にパソコンをONしてボーっとゲームをすることもありません。バリバリ学問に励みます。

大学に関しては、まだ放送大学に確定した訳ではありませんが、やはり、なんと言っても、車通学出来る放送大学センター(教室?)が広島市内にあって、他県の通信大学の様にスクーリングで金銭、通学などで困ることがない、という要件が、結構重要になってきます。

まあ、ぼちぼち考えるさ!

『主観主義』  2012/05/21(月) 23:03:25
 この出版に拘ることは私の自由度を狭めることになると思うので、なるようになる、なんとかなる、風まかせ、の気持ちで接することにします。

幸せ者  2012/05/21(月) 18:24:34
 私はとにかく幸せ者です。健全に生きていきたいと思います。

老後  2012/05/17(木) 07:53:51
 とりあえず、野家啓一『歴史を哲学する』は、猛烈に面白い。これは、私でも学問することは成立することを意味するかもしれない。はしょって言えば、例えば相場で成功して別荘を買ったり、両親に新築一軒家を提供したりすることは諦めたとしても、私に死が訪れるまで、私はずっと学問を楽しんでいられるかもしれない、ということです。

しかし、これは老後の生活費があってのことです。私は緑内障でもあるので、失明の可能性もあり得ます。ハッキリ言って、国民年金だけでは足りない可能性が十分にあり得ます。また、現状、一般サラリーマン級の収入を得ることも出来ません。やはり、低金利の今、そして今後、現物株などの投資で老後資金を蓄えなければなりません。その為には当然、証拠金取引を諦めなければなりません。

もし私が証拠金取引を諦めきれないということは、私は証拠金取引によってもたらされる成功に代わる価値観を学問には見いだせていない、ということになります。今、私に出来るのは、証拠金取引に挫折した今、学問に専念して、証拠金取引を諦めきれるに足る価値観を学問にハッキリと見出して、自覚して、身をもって体験する事しかありません。

●本を沢山読むこと。そして沢山考えること。最終的に沢山アウトプットすること。それらの繰り返し。出来るならば、それらのロードマップを自分で表しておくこと。自分で無理なら、通信大学で勉強する事。

『歴史を哲学する』を読んでいて思うのですが、私が思いついた『主観主義』は、当の昔に偉い人が考えていたことの様でして、出版までこぎ着ける意欲はしぼんでしまいます。アプローチや本の構成に知恵を絞れば出版は可能かもしれませんが、とりあえずは、人生を豊かにしてくれる「夢物語」というレベルで『主観主義』を捉えておくことにします。

主観主義を構成する根本欲求  2012/05/17(木) 06:46:48
 主観主義は、自己満足が根本にあって初めて存在する。しかし、主観とは客観との境界が曖昧であるのと同様に、自己満足とは、他者満足(他人から見ても自己満足には客観性がある、賛同してもらえる自己満足である、ということ)との境界も曖昧である。

すごい!  2012/05/17(木) 06:39:28
 野家啓一『歴史を哲学する』これはすごい本です!読む度に嬉しくなってきます。阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』には、阿部氏の師匠の言葉として、「わかるということは、自分が変わるということでしょう。」というものが出て来ていて、私は、野家氏の文章が、結構わかるのです。それは、私が変わっているということに、他ならないのではないでしょうか。私は今、変わっているのです。

そうか!  2012/05/17(木) 06:32:03
 私は、手っ取り早く銭儲けがしたい。銭が欲しくて欲しくてたまらない。でも相場での道はあきらめざるを得ない。明らかに私には向いていない。相場は株の現物だけで楽しむべきである。では、「手っ取り早く銭儲けがしたい」という欲求を出来るだけ満たす方法として、『主観主義』を出来るだけ早い内に出版までこぎつけることである。『主観主義』は、私の現状の実力を最大限、表したものである。今から、練りに練りあげて、縦横無尽に概念を張り巡らせ、一冊のコンパクトな書物に、出来るだけ早い期間内に出版までこぎつければオッケーだ。恐らく、売れなくても満足は得られるし、出版出来るだけでも万々歳だ。多分、「手っ取り早く銭儲けがしたい」という欲求と、「今から早い内に『主観主義』を出版したい」という欲求は等価であろうと思う。出版出来れば万々歳、売れなくても、次なる欲望がもりもり湧き上がってくるはずだ。

今なすべきことは、『主観主義』の原稿の締切を出来る限り早い期間内に設定することである。別に締切を過ぎたって問題ない。締め切りを設定することが重要である。

よって、『主観主義』の原稿の締め切りは今年一杯とする。

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