相場 2012/05/17(木) 06:09:12 |
| 今はとにかく、相場のことは忘れて学問に没頭したいのだけども、中々に難しい。 |
だめだ 2012/05/16(水) 09:56:15 |
| 225先物ミニを、5連続くらいで外しまくって、現物以外からは撤退することにしました。もうマツダ株の現物だけにします。証拠金取引ばかりやってたら、勉強ができない。私には、程よいポジションが良いのではなくて、とにかく現物しかありません。 |
複雑な問題 2012/05/15(火) 02:03:50 |
| 例えば、核兵器問題において、抑止力問題という別問題になっているし、では「抑止力」が何故必要なのかと言われれば、大国と小国の格差を埋めるものだと言われれば、では大国と小国の違いは何でできているかと言われれば、やはり経済問題であるし、それはどうして?となってくる。 いわゆるバーサーカー的テロリストが核兵器を所持した場合どうなるか?の場合、抑止力問題の範囲外になってしまう。
しかし、「問題」の根本を解決すれば問題は解決すると言うのは幻想ではなかろうか?一つ一つ、並列結合している問題を潰すのが良さそうだ。その一つを自分が担当すればいいのである。 |
伝承者 2012/05/15(火) 00:57:55 |
| ようやく相場のショックから抜け出せたのですが、チャレンジしてみようか?と思うボランティアがあります。広島市が募集を始めた「伝承者」です。募集要項の一部を以下に貼りつけます。
ー被爆体験伝承者、被爆体験証言者を募集しますー 被爆者の高齢化が進み、被爆体験を直接語り継ぐことができる方が減少している中、被爆者の被爆体験や平和への思いを次世代に確実に伝えるため、被爆体験証言者の被爆体験等を受け継ぎ、それを伝える被爆体験伝承者の養成を行うこととし、その研修受講者を募集します。 また、被爆者の中には、新たに、自らの被爆体験を広く後世に伝えたいという意向をお持ちの方もおられることから、自らの被爆体験等を語る被爆体験証言者を募ります。
■ 応募資格 意欲のある方なら、どなたでも応募可能です(年齢、住所などは一切問いません。)。
以上です。「伝承者」を募集しているのです。私は、個別具体的に行動もしなければいけません。語り部一世の持つ説得力と語り部十世の持つ説得力は確かに違うかもしれません。しかし人間は、理性によって、その説得力の違い(理論的なものではなく、感覚的なもの)を補完、修正し、語り部一世の主張と語り部十世の主張を同等なものと見なせる人間を作らなければなりません。それらを同等の物と見なす理性を教育し、植え付ける仕事も、伝承者にあるのではないかと思うのです。経験や体験と、疑似体験は同等のものであるという価値観は、疑似体験という概念の重みを経験や体験などの概念と同等レベルまで引き上げることで達成されます。
伝承者は、疑似体験の重みも主張できなければなりません。何故、この場合、疑似体験は本物の体験と同等なのか?が説明できなければなりません。この場合、疑似体験は何故、重要なのかが説明できなければなりません。
そもそも、語り部一世に説得力はあるのか?という疑問に答えなければなりません。原民喜の『夏の花』を読んで、「それがどしたん?w」と言う生徒もいると、国語教師をやっている友人は言います。「説得力」という言葉の構造を解き明かし、語り部一世の持つ説得力とは何か?を解明しなければなりません。そして、一世と十世のもつ説得力の違いも知っておいた方がよさそうです。その違いを認識した上で、経験や体験と疑似体験を同等とみなす理性という人間の底力を作り上げる必要がある、と主張したいのです。
道端でもがき苦しむ人が居るのを見て、助ける人がいれば、可哀そうと思うだけの人もいるし、それがどしたんwという人もいる。私の力ではなんともならない人もいるから、これは他人に任せるしかありません。
■ 応募資格 意欲のある方なら、どなたでも応募可能です(年齢、住所などは一切問いません。)。
とあるので、私が座学が苦手である、という点も、なんとかクリア出来るかもしれません。とにかく事情を正直に話して、ダメならダメでもいいので、応募したみたいです。出来ることなら、チャレンジしてみたいです。英語を使う状況も考えられるみたいなので、英語を勉強する起爆剤にもなりそうな打算もあったりします。 |
マツダ株 2012/05/12(土) 03:42:12 |
| 水曜日の後場、維持率20%復活が不可能っぽかったので投げました。かなりショックです。とりあえず225先物ミニの1枚から頑張ってみます。マツダ増資後に借金した分は確保できたのでよかったですが、結局、増資前の資金は吹っ飛んでしまいました。9日は福山のふくやま美術館で山下清展を観て感激した気分では挽回できない穴となりました。 |
マツダ株 2012/05/09(水) 05:34:42 |
| もう壊れてしまいました。多分、今日投げます。増資後に借金した分は返済したいのですが、悪い虫が・・・。 |
勉強 2012/05/06(日) 22:54:50 |
| 読みたい本、読むべき本が一杯ありすぎる。何から手を付けていいのかわからない。やっぱり教育機関に所属することは大事ですね。 |
いやまてよ 2012/05/06(日) 22:36:55 |
| 人間の赤ちゃんがいる。これに与えるインプットとは、理性そのもののような気がする。もちろん理性と感情のミックスしたものだけども、簡単には、赤ちゃんに理性を植え付けるから感情が生まれる、ような気がしてきた。 経験論をもっと勉強しなければならない。実は、「理性」や「感情」という言葉の意味を知らなかったりする。 |
そうだ 2012/05/06(日) 22:26:18 |
| y=xを出発点にして、点C(2,4)を観測してからy=xの二乗にルールを切り替えた後、点D(3,3)を目撃するに、帰納してy=xを近似して当てはめ直すかy=xの二乗を貫くかは客観ではなく主観の問題ですよ、と言ってしまいたいのが主観主義です。別の側面は、「ナインティーナインの岡村さんが頑張っているから俺も頑張ろう」では、いずれ行き詰りますよ、カンフル剤に耐性が出来てしまって、岡村さんが頑張っているのを見ても、いずれ不感症になってしまいますよ、そうじゃなくて、自分の根源から湧いて出てくるものが大事なんですよ、それがないなら、別にがんばらなくてもいいのにカッコ付けなくてもいいのにね、というのが主観主義です。
人間の赤ちゃんを密閉空間で育てるとどうなるだろうか?つまり、生命維持以外のインプット(情報や教育など)を一切しなかったらどうなるか?少し考えればわかることです。人間は生まれた時は白紙の状態で、経験を積むことにより成長する、というロックの経験論には分があります。インプットは必要不可欠です。このインプットをし続けたにもかかわらず、なんら自身の根源から湧き出てくるものがない、というならば、それでいいではないですか。根源から湧き出てくるものとは、ズバリ、欲求です。欲求が必要なのに、どうちゃらこうちゃら理性で挽回しようなんて、滑稽としか言いようがありません。はっきり言います。行動をドライヴさせるものは欲求です。人間の成長ドライバーは、理性ではなく感情です。理性は確かに感情よりも高次のものなのかもしれませんが(根拠は、滑稽にも、デカルトやヘーゲルが理性は有難いものだと言っているからにほかなりません。先人のふんどしでデカイ面して相撲を取る現代人の滑稽図)、感情なくして理性は一本立ち出来ない、というのが今の私の見立てです。感情を導き出すのが主観主義です。現実には、自身の根源から湧き出るものは何もない、と言う主張は、他でもない、理性により感情を封殺しているに他ならないのではないでしょうか?どうちゃらこうちゃら言って、根源から湧き出るものの実現可能性の薄さから打算して感情を撲殺しているのが理性ではないでしょうか?理性至上主義者がアホに見えて仕方がない。理性=客観、感情=主観の構図です。 |
具体と抽象 2012/05/06(日) 21:37:02 |
| 具体的とは何か?具体的事実とはどこまでの範囲のことなのか?これらの哲学的定義づけは今は無理だけども、だからそれは置いておいて、とにかく具体的事実、個別的具体例を徹底的に収集して、帰納的に抽象へと一般化、規則化、法則化し、そして演繹的に当初の具体的事実、個別的具体例とは別の具体的事実、個別的具体例を未来予測する、という方法論にしがみついていれば間違いはない。
点A(0,0)と点B(1,1)の具体的事実としての二点がある。その二つから規則性を帰納すると、例えばy=xという直線があったりする。そして、x=2のとき、yはいくらと予測出来るのだろうか?という問いに、y=xという規則性、一般性、法則性から演繹的にy=2という未来予測をする。つまり、点A,Bから点Cの存在を未来予測出来るのが、具体と抽象を帰納と演繹が繋いでいる成果である。
具体→帰納→抽象→演繹→具体→帰納→抽象→演繹・・・・
点C(2、4)とか、(2,8)とかの新事実が観測されたりする場合は、帰納してy=xの二乗とかを法則化すれば良い。しかしこれは、明らかに進歩史観に基づいている。新しく発見された規則性y=xの二乗は時間的に古いy=xよりも価値があるんだ、偉いんだ、という価値観である。つまり、点C(2,4)が観測されたら、未来永劫、y=xの二乗という法則に従わなければならないのだ、という社会的な価値観、社会通念に縛られてしまう。点C(2,4)は誤差のようなもので、近似的にはy=xという規則性により、点D(3,3)が観測してしかるべきである、という演繹がされても間違いではなく、事実、点Dは観測された、ということもありうるはずだ。つまり、y=xという規則性の次にy=xの二乗という規則性が選択されたとしても、時間的にその後にはy=xという規則性に戻ることになにもやましいことはない。これらは、具体と抽象との間を常に行ったり来たりして、帰納と演繹を繰り返せばいいのである。 |
|