晩年ニートの成り上がり さんの日記

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逆説  2011/12/30(金) 06:56:15
 つまり、競争に真に強い人は、競争しようとはしていないのかもしれない。

勝利という価値観  2011/12/30(金) 06:51:54
 勝利するという価値観を人間が知ってしまった以上、人間が競争から逃げ去ることは出来ないのだけども、しかし、超一流の人間は、競争の弊害から脱出していることに注目しないといけないと思う。つまり、大部分の人間は、競争の弊害にどっぷりと漬かっていると私は思っている。そんなことを思っていると、競争は悪だ、平等がいいんだ、なんて転じてしまう。イチローや松井秀樹は、運動の苦手な人間を馬鹿にしたりするのだろうか?同様に湯川秀樹は勉強の苦手な人に馬鹿だとか頭が悪いだとか、言ったことがあるのだろうか?真に競争に強い人は、一般ピープルとは明らかに違う。真に競争に強い人は、「競争」ということに対して、一般人とは違う捉え方をしているに違いない。もしかしたら、勝利という価値観を持っていないか、もしくは隠し通すのがよほど上手いか、どちらかではないだろうか。もし、人に勝利するということに価値を見出していないとしたら、もうお手上げです。そんな価値観を私が持っている以上、私は超一流には一生、なれない。しかし、理想と言う看板は掲げていたい訳です。競争の弊害から脱出したい。競争の本質が相対化だとか比較だとかと言うのであれば、一生涯、その弊害から逃れることは出来そうにない。やはり、競争の本質とは、主観主義ではないかと思っている。

構造とは何か?  2011/12/29(木) 08:39:27
 ビルディングなどの建築物のような構造には、当然実体がある。あえて言うなら、物質的である。
しかし、「社会」のような概念という構造には、実体がない。精神的な存在である。絶対的な存在ではない。絶対神から見た存在ではない。観察者の主観(主体)による認識がすべてである。認識される、されないで、存在する、存在しないが決まってしまう。
しかし、人間には客観性がある。主体による認識がされていなくても、客観性のあると思える認識を、主観として認識することが出来る。厳密主義的には、人間には主観しか存在しないと言うべきかもしれないが、一応、主観と客観にも重複する部分がある。
主観と客観の関係を言いたいのだが、うまく言えない。

つまり  2011/12/29(木) 07:57:54
 論理と倫理は、不完全領域という主観が介在する領域で重複している。

論理と倫理  2011/12/29(木) 07:55:37
 論理は、絶対論理と不完全論理に区別される。倫理は絶対論理で表現できないが、倫理は不完全論理を使って表現することはできる。不完全論理と倫理は置換可能である。

わかりやすく言えば  2011/12/29(木) 07:45:56
 論理とは、それが表現されるだけで論理として存在する。論理的命題は、表現されただけでも、十分論理として存在できる。

しかし、倫理とは、表現されただけでは倫理として意味をなさない。態度、行動に移して初めて、倫理として意味を持つ。態度、行動を含めたものすべてが、倫理である。「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という論語の倫理は、実行に移して初めて、意味を成す。

倫理とは何か?  2011/12/29(木) 07:40:58
 倫理も、論理と同様、概念であり概念装置であるのだろうか?

つまり、人類が、倫理と言う概念を有難がり続ける以上、倫理的命題は継承される、というのだろうか?

私は思っている。論理とは表現であり、倫理とは態度、行動である。
論理とは表現した段階で完結しうるが、倫理とは、態度、行動に移してようやく、完結する。

もっと言えば  2011/12/29(木) 07:35:39
 人類が、論理と言う概念を有難がり続ける以上、論理的命題は継承される

しかし、私は、論理とは、数式や論理記号で表現されるような「絶対論理」と、その他の言語により表現される「不完全論理」の二種類に分けられると思っている。

今のところ、絶対論理的命題は継承されるが、不完全論理的命題は主観が介在するので、継承されない可能性があると思っている。

概念装置  2011/12/29(木) 07:24:39
 ぐぐっていたら、ヤフー知恵袋で概念装置の意味がわかりました。概念装置も概念の一つであろうことです。

ヤフー知恵袋では、概念装置について、
@概念を設定させる働きを持つ道具・もの (例文)言語と言うものは、単なる音声の組み合わせでなく、人間が世界を把握するための概念装置である
A(共同体に対し)ある特定の機能をもつように据えられた概念 (例文)進歩ということは、文化のあらゆる分野が、絶えずその変更を余儀なくされるような、共同体にとっての一つの概念装置であると言えるだろう

以上が挙げられていました。

Aを流用すると、以下が言えると思います。
●論理という概念装置が未来永劫、機能するのであれば、諸所の論理的命題も未来永劫、人類に継承される、成立し続ける

つまり、「論理」とは、概念であり、概念装置でもある
Aの表現を活用すれば、「論理」とは、共同体に対し論理的命題を保障させる、成立させ続ける機能をもつように据えられた概念である

容疑者Xの献身  2011/12/28(水) 22:17:49
 昨晩の映画「容疑者Xの献身」を見ました。非常に良かったです。福山雅治は超かっちょええし、堤真一は好きだし、内容もよかったです。学生時代、どうせ世間知らずのまま社会に出るくらいだったら、もっと学問に打ち込んでおけばよかったと後悔しましたが、でも今からでもがんばります。でも、東野圭吾?も、「論理」という言葉の意味がよくわかってないんだなーということがわかりました。

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