晩年ニートの成り上がり さんの日記

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姜さんの続き  2012/05/25(金) 20:38:05
 「問題意識を強く持っている若者は沢山いる。問題意識をいかなる方法論で解決に導くかが重要である。しかし、その方法論が未熟なので、モノローグ(独白)で終わってしまっていて、ダイアローグ(対話)になっていない。」

非常に、非常に、耳が痛い、物凄い、重要な指摘だと思いました。

姜さんの続き  2012/05/25(金) 20:30:22
 「若者には、複数の物の見方があることを教えたい。あるアスペクト(切り口、様相、視点、観点?)で論文を書く場合、その切り口が相対化できていない(問題解決には、今から論述する切り口しか存在しないんだ、それしか見えていない)若者が多い」と言っておられた。

ミラーニューロン  2012/05/25(金) 17:52:54
 茂木健一郎『脳が変わる生き方』に、ミラーニューロンという神経細胞が紹介されています。他人が野球のバットを振っているのを見ると、自分もバットを振っているような脳内活動が起こる、それがミラーニューロンの働きだ、というのです。

これは、「疑似体験」の有効性(疑似体験することでミラーニューロンが働いている)を少しは強化するものではないかと、思い立ちました。

姜尚中  2012/05/25(金) 17:00:08
 彼はNHKの「仕事学のすすめ(だったかな?)」で言っている。夏目漱石を読むと、「幸福である状態は、物事を深く見てはいない」「不幸であるからこそ、物事を深く見るのである」しかし、「物事を深く見ることが幸せであるとも言えない(かもしれない)」「マックス・ウェーバーが言うには、幸福とは幻想にすぎないかもしれない。人間は生きていると決して幸福になれないかもしれない」

論理を安直に見ると、「幸福になりたければ、物事は深く見ないこと」であろうか。「人間は果たして、幸福を求めるべきだろうか?」

GNO3  2012/05/25(金) 16:32:17
 ガンダム・ネットワーク・オペレーション3、略してGNO3はガンダムのネットワークゲームで、GNO1から数えて10年くらいの営業になります。それを辞めて2日経ちますが、滅茶苦茶さみしいです。心にぽっかり穴があいたようです。それだけ依存していたということでしょうか。これは「趣味」の問題でもあります。GNO3は趣味だったのでしょうか?勉学に充てる時間を削ってまでもするGNO3は趣味だったのでしょうか?そう考えると、とにかく時間が過ぎるのを待つだけです。いずれ、GNO3のない生活に慣れるのでしょう・・・。趣味ってなんだろう。放鳥されているトキのひなが巣立った、ってニュースがありましたけど、これなんか野鳥ファンから見ればすごく嬉しいニュースなんでしょうね。一般人的にも意義がありそうだし。私はどうも野心が強いようですね。学問を野心の道具にしようとしているのかもしれません。つまり、学問を趣味とは見なしていない、ということかもしれません。

平和とは何か?  2012/05/24(木) 07:55:54
 平和とは何か?それは倫理の伝承である。倫理そのものは、世代世代で知識としてインプットされている。しかし実践はされていないに等しい。「倫理の完全実践には不可能性がある」と認めたうえで、可能な限り、倫理を伝承しなければならない。論理というストックとは違い、倫理はフローである以上、伝承し続けなければならない。例え、倫理の実践が不完全であろうとも、倫理の伝承は未来永劫、続けられなければならない。

カントは、道徳とは理性からくる、と言ったらしい。
ヒュームは、道徳とは感情からくる、と言ったらしい。

これらは、現在でも論争が行われているらしい。(ウィキペディアによる)
論語で言う「自分がされて嫌なことは他人にするのは辞めましょう」という倫理は、理性による操作か、もしくは感情による操作か、今の私にはわからない。どちらにせよ、完全実践が不可能であろうとも、人殺しが絶対になくならないのであっても、「倫理、道徳」というフローは世代世代で伝承されなければならない。しかしながら、「倫理、道徳」は経験、体験、実体験によって強化・学習される。自分が嫌かどうかもわからないことを他人にしてよいかどうかの判断をつけるのは難しい。「頭を叩かれて痛い」のは、「頭を叩かれる」という体験をしたから、他人にしてはならないと経験する。これによって、「自分がされて嫌なことは他人にするのは辞めましょう」という道徳が強化される。平たく言えば、身をもって体験する道徳である。

経験は道徳に食い込んでいる。痛い目を見ないと、他人にやっていいことかどうかの判断が難しい、判断に困る、事態が起こる。これまでの私の読者の皆様は展開がお判りかと思いますが、二度と痛い目を経験することが事実上不可能な経験がある。「原爆が二度と使われてはならないかどうかは、君が原爆の被害に遭って来れば自明の理だ」という主張(原爆の被害を経験してくれば済む話だ)がナンセンスであることは明らかです。道徳はストックではなくフローです。道徳の文言そのものは確かにストックですが、道徳の実践においては不完全性、不可能性があるので、しつこいですが、道徳はフローと呼ばざるを得ません。水ものです。だから、完全実践不可能だからと言って、伝承を諦めては絶対にいけません。

しかし、「頭を叩かれたら痛かった」だから「他人の頭を叩くのはやめよう」という、日常のごくありふれた「経験・体験」から「自分がされて嫌なことは他人にするのは辞めましょう」という論語の文言を理解するのは比較的簡単である。(これでさえ不完全性、不可能性がある!)所が先の「原爆の被害を経験してくればよい」というナンセンスな、経験の再現要求に無理がある経験から導き出される道徳の伝承はどうすべきか?原爆の被害に遭うことは不可能であるにもかかわらず、痛みを身を持って体験する事の出来ない経験はどのように理解すべきか?今まで私は、当たり前のように、まず追体験する事を言ってきた。しかし、実体験と追体験では、説得力、被害印象の定着に明らかに違いが表れるのが、机上の理屈から明らかだ。つまり、語り部一世の説明は納得するけども、語り部三世の説明には「なんだかなぁ」であり、語り部十世の説明には「マユツバだ」との印象を受けるのではないか?実体験がもたらす説得力が文言にされ、語り部二世以降に伝承されるに従って、劣化、風化が起こり得るのは想像がつく。私が言いたいのは、「語り部の力量」が問題ではなく、「受け手側の力量」が問題なのである。あえて力量と言ったのは、子供から大人へと成長するにしたがって自然に身に付ける能力ではなく、外部から、教育などによって伝授される技術だからである。語り部が何をどんなに説明しようとも、受け手側に技術がなければ無駄である。では、それはどんな技術か?

抽象的には、「疑似体験、追体験も実体験や経験と同等なものと見なすという理性的把握」のことである。これは、語り部一世と語り部三世との説得力の違いを感覚的に持ってしまう受け手側による理性的操作、理性的作業になる。つまり、言葉の意味上、疑似体験と実体験は違うにもかかわらず、それらを同等とみなす訳だから、論理という理性により疑似体験を補強して、実体験に近づけなければならない。その為に、例えば、「戦争や核兵器は、人類の基本的人権を吹き飛ばしてしまうから、それは嫌だよね?」などの論理で補強しなければならない。受け手側は、疑似体験を実体験とは別ルートで、論理と言う理性で補強する技術が必要になる。今はこれ以上はわからない。


神がいて、平和をもたらす技術をもっているとするなら、それはかなり複雑な手法なのだろう。「問題」をバラバラに分解して、個別に解決策を見つけ出したりするのかもしれない。時計を分解して、部品をそれぞれ再構成したら自動車が出来上がった、みたいな現象も起こり得るのかもしれない。気を付けなければならないのは、人間は万能ではないので、個人個人に与えられた役割を一つ一つ成し遂げていくしかない。

解決策が抽象的に記述しつくされたからと言って、その抽象を形作る具体的事象にたいしては、コツコツと一つ一つ、個人個人が地道に作業しなければ、解決には至らない。


こんな私にも、問題意識は色々ある。その一つが、「疑似体験を実体験と同価値まで引き上げる方法を確立する事」である。今度、ゆっくりと、大きく、じっくり考え事をして、そのような問題意識を箇条書きに抜き出して、それらから逆算して、「具体的にはどのような学問を勉強しなければならないのか?」を来年の3月までには見当をつけておきたい。今の所、放送大学は選択肢から外れる気がする。日本大学通信部の哲学科かなぁ、と思っている。哲学という抽象と歴史学という具体が織りなす日本織物を見てみたいものだ。

フューチャリスト  2012/05/24(木) 04:55:01
 茂木健一郎『脳が変わる生き方』に、未来のことを考える人=フューチャリストというカテゴリー?があることがわかる。私はフューチャリストになろう。これだと、プロ・アマ問わず、というニュアンスが含まれるので、草学者にもってこいだ。そもそも、歴史哲学者とは、元来、フューチャリストではないだろうか?歴史哲学のある大きな意見の一つに、「歴史(過去)には法則性などない、見つけ出そうとしてはならない」というものがあるようですが、しかし私の意見としては、「同じ現象は二つとない」けども、「同じような現象は二つ以上ある」訳だから、やはり歴史の規則性、法則性を導き出し、つまり帰納して、そしてその規則性、法則性から未来(フューチャー)を!演繹的に予測すべきなのだ、と思います。これがまさしく、フューチャリスト=未来のことを考える人ではないでしょうか?

放送大学  2012/05/24(木) 04:01:57
 今、必死で計算したり考えたりしているのですが、結論として、来年4月から放送大学に入学しようかと思っています。なんとか今年中には借金を完済して、4月からの学費と老後資金の積み立ての両立が出来そうです。そして、なんと言っても、勉強時間の確保ですが、先ほど一気に決断しました。ガンダムのネットワークゲームを退会しました。思えば10年くらい続けたのでしょうか。このゲームにかなり依存していた自分を思えば、つまらない時間を費やしたなぁとため息も出ますが、内容の濃い、楽しい人間関係が築けた確信もあって、悲喜こもごも?です!これからは無駄にパソコンをONしてボーっとゲームをすることもありません。バリバリ学問に励みます。

大学に関しては、まだ放送大学に確定した訳ではありませんが、やはり、なんと言っても、車通学出来る放送大学センター(教室?)が広島市内にあって、他県の通信大学の様にスクーリングで金銭、通学などで困ることがない、という要件が、結構重要になってきます。

まあ、ぼちぼち考えるさ!

『主観主義』  2012/05/21(月) 23:03:25
 この出版に拘ることは私の自由度を狭めることになると思うので、なるようになる、なんとかなる、風まかせ、の気持ちで接することにします。

幸せ者  2012/05/21(月) 18:24:34
 私はとにかく幸せ者です。健全に生きていきたいと思います。

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