マツダ株 2012/05/09(水) 05:34:42 |
| もう壊れてしまいました。多分、今日投げます。増資後に借金した分は返済したいのですが、悪い虫が・・・。 |
勉強 2012/05/06(日) 22:54:50 |
| 読みたい本、読むべき本が一杯ありすぎる。何から手を付けていいのかわからない。やっぱり教育機関に所属することは大事ですね。 |
いやまてよ 2012/05/06(日) 22:36:55 |
| 人間の赤ちゃんがいる。これに与えるインプットとは、理性そのもののような気がする。もちろん理性と感情のミックスしたものだけども、簡単には、赤ちゃんに理性を植え付けるから感情が生まれる、ような気がしてきた。 経験論をもっと勉強しなければならない。実は、「理性」や「感情」という言葉の意味を知らなかったりする。 |
そうだ 2012/05/06(日) 22:26:18 |
| y=xを出発点にして、点C(2,4)を観測してからy=xの二乗にルールを切り替えた後、点D(3,3)を目撃するに、帰納してy=xを近似して当てはめ直すかy=xの二乗を貫くかは客観ではなく主観の問題ですよ、と言ってしまいたいのが主観主義です。別の側面は、「ナインティーナインの岡村さんが頑張っているから俺も頑張ろう」では、いずれ行き詰りますよ、カンフル剤に耐性が出来てしまって、岡村さんが頑張っているのを見ても、いずれ不感症になってしまいますよ、そうじゃなくて、自分の根源から湧いて出てくるものが大事なんですよ、それがないなら、別にがんばらなくてもいいのにカッコ付けなくてもいいのにね、というのが主観主義です。
人間の赤ちゃんを密閉空間で育てるとどうなるだろうか?つまり、生命維持以外のインプット(情報や教育など)を一切しなかったらどうなるか?少し考えればわかることです。人間は生まれた時は白紙の状態で、経験を積むことにより成長する、というロックの経験論には分があります。インプットは必要不可欠です。このインプットをし続けたにもかかわらず、なんら自身の根源から湧き出てくるものがない、というならば、それでいいではないですか。根源から湧き出てくるものとは、ズバリ、欲求です。欲求が必要なのに、どうちゃらこうちゃら理性で挽回しようなんて、滑稽としか言いようがありません。はっきり言います。行動をドライヴさせるものは欲求です。人間の成長ドライバーは、理性ではなく感情です。理性は確かに感情よりも高次のものなのかもしれませんが(根拠は、滑稽にも、デカルトやヘーゲルが理性は有難いものだと言っているからにほかなりません。先人のふんどしでデカイ面して相撲を取る現代人の滑稽図)、感情なくして理性は一本立ち出来ない、というのが今の私の見立てです。感情を導き出すのが主観主義です。現実には、自身の根源から湧き出るものは何もない、と言う主張は、他でもない、理性により感情を封殺しているに他ならないのではないでしょうか?どうちゃらこうちゃら言って、根源から湧き出るものの実現可能性の薄さから打算して感情を撲殺しているのが理性ではないでしょうか?理性至上主義者がアホに見えて仕方がない。理性=客観、感情=主観の構図です。 |
具体と抽象 2012/05/06(日) 21:37:02 |
| 具体的とは何か?具体的事実とはどこまでの範囲のことなのか?これらの哲学的定義づけは今は無理だけども、だからそれは置いておいて、とにかく具体的事実、個別的具体例を徹底的に収集して、帰納的に抽象へと一般化、規則化、法則化し、そして演繹的に当初の具体的事実、個別的具体例とは別の具体的事実、個別的具体例を未来予測する、という方法論にしがみついていれば間違いはない。
点A(0,0)と点B(1,1)の具体的事実としての二点がある。その二つから規則性を帰納すると、例えばy=xという直線があったりする。そして、x=2のとき、yはいくらと予測出来るのだろうか?という問いに、y=xという規則性、一般性、法則性から演繹的にy=2という未来予測をする。つまり、点A,Bから点Cの存在を未来予測出来るのが、具体と抽象を帰納と演繹が繋いでいる成果である。
具体→帰納→抽象→演繹→具体→帰納→抽象→演繹・・・・
点C(2、4)とか、(2,8)とかの新事実が観測されたりする場合は、帰納してy=xの二乗とかを法則化すれば良い。しかしこれは、明らかに進歩史観に基づいている。新しく発見された規則性y=xの二乗は時間的に古いy=xよりも価値があるんだ、偉いんだ、という価値観である。つまり、点C(2,4)が観測されたら、未来永劫、y=xの二乗という法則に従わなければならないのだ、という社会的な価値観、社会通念に縛られてしまう。点C(2,4)は誤差のようなもので、近似的にはy=xという規則性により、点D(3,3)が観測してしかるべきである、という演繹がされても間違いではなく、事実、点Dは観測された、ということもありうるはずだ。つまり、y=xという規則性の次にy=xの二乗という規則性が選択されたとしても、時間的にその後にはy=xという規則性に戻ることになにもやましいことはない。これらは、具体と抽象との間を常に行ったり来たりして、帰納と演繹を繰り返せばいいのである。 |
NHKマイルカップ 2012/05/06(日) 14:24:28 |
| 4、14、15のボックスを300円ずつと、WIN5のコンピュータおまかせで100円買いました。 先週は、テレビで中継を見ていたのですが、馬券を買っているといないでは、面白さが天と地の差があるくらい違いますね。自腹で馬券買ってテレビで中継観るのが、あんなに楽しいとは思いませんでした。一口を100円にして、日曜だけでなく土曜日もやったらもっと楽しいかなぁと思っています。 |
環境問題 2012/05/05(土) 07:47:36 |
| ベンサムやミルは、「個人の幸福と社会の幸福の調和」を企図した、とある。自分と他者との調和、個人と社会との調和、そして人と自然との調和であると言うべきだ。そういう全体の中での「環境問題」とは、「人類の快楽の増大と苦痛の減少」を求めるばかりで、自然との調和を無視したものであると解釈できる。「自由」とは「個人」の中だけで成立するものではなく、「全体」の中で成立するものかどうかが判定されるべきである。個人の自由とは、全体の中でも成立していなければならない。 |
快楽とは何か? 2012/05/05(土) 07:32:00 |
| 他人から絶大なる好評価を浴びる、という快楽がある。
しかし、その快楽までの道のりには、普通、かなりの苦痛が伴うし、苦痛を経験すれば必ず快楽までたどり着くわけでもない。もちろん「快楽」も大小様々で、底の浅い、表面的な快楽から、底の深い、絶大なる快楽までがある。得られる快楽のメカニズム、単純には、努力を第一にするからこそ最終的に快楽に辿り着くのだ、というものを理解していないと、絶大なる快楽までの途中で、確実に諦めてしまう。
しかしながら、他人の力作である小説やDVDを見て「嬉しい、感動した、面白い」という快楽が底の浅いものであるからと言って、人類世界にとっては取るに足らないものだと言うのも、どうも理解が薄い解釈のような気もする。まあ、ここら辺が、価値観とか、性格の影響を受けるものではあるだろう。 |
原点 2012/05/05(土) 07:20:36 |
| 何故?何故?と突き詰めていくと、どうも論理的仕組みが組み込めないものに行きつくようだ。先ほど、NHKの高校講座の現代社会の放送を聞いていて、「何故、現代社会を学ぶのでしょうか?」と言われて気が付いた。とりあえず、「功利主義」を原点にするのが無難だろう。広辞苑を引くと、功利主義とは、「広義では、功利を一切の価値の原理と考える説」とあり、「功利」とは、私は、「効果・効能」と解釈している。ベンサムやJ・S・ミルは、快楽の増大と苦痛の減少を道徳の基礎としているらしい。つまり、彼らの言い分としては、「効果や効能」として人間にとって好ましい影響(幸福?)とは、快楽が多く、苦痛が少ない状態のことを指すのではないだろうか。ベンサムとミルでは「幸福」についての考え方を異にすると言われている。ここら辺はわからない。
が、とにかく、人間の原点は、功利主義的に、「快楽の増大と苦痛の減少を道徳の基礎とする」のが好ましい。多分、ここら辺がJ・S・ミルの自由主義分野において名を上げている部分ではないだろうか。彼は、「自由とは、他人に迷惑をかけない限りにおいて自由である」みたいなことを言っているらしいので、他人に苦痛を与えない限りにおいて快楽を求めればいいのだろう。つまり、「何故、現代社会という教科を学ぶのか?」と言われた時、現代社会における諸問題とは、一般的に「快楽が減少し、苦痛が増大している」という、価値がまるでない状態を指すのだろうから、価値観的にそれら諸問題を解決することが「快楽の増大と苦痛の減少をもたらす」ことが好ましいので、まずは「現代社会」から「諸問題」をインプットすることが幸福への第一歩となるのだろう、ことである。
もちろん、「価値」とは一義的なものではないだろうから、幸福にも種類があるだろう。今思いつくのは、「修行」などは、入り口的には単なる苦痛の増大でしかないだろうが、巡り巡って快楽(幸福)の増大につながるかもしれないので、範囲は様々だが、「自由」がすべていいわけでもない。 |
挫折しそうだが 2012/04/30(月) 23:32:20 |
| 漫画、小説、DVDなどの他人の力作を鑑賞して楽しむ人生でいいじゃないか、自分で力作を生み出そうなんて欲張らなくてもいいじゃないか、とも思うのですが・・・。 |
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