晩年ニートの成り上がり さんの日記

新しい10 昔の10  100新しい方へ移動 100昔へ移動

  2011/11/25(金) 04:37:33
 (『経済学―名著と現代』日本経済新聞社編の、ヒュームに対する、松井彰彦氏の文章を猛烈に参考、引用して書きました。)
ジョン・ロックの経験論を採用したデイヴィッド・ヒュームの言う、道徳とは理性によって判断されるものではなく、感じられるものであり、共感という感情こそが道徳の根底をなすものという考え方に、私は立脚して今後の生活を送ろうと思う。しかし、カントの言う、道徳とは理性的なものであるという主張に対しても、一定の理解を示しておかねばならない。
所で、共感とは、身近なものから連想されるという。自分と同じ境遇にある人に対する共感は、見知らぬ人に対する共感よりも強くなる。自国民に対する共感は他国民に対する共感よりも強くなる。ヒュームは、「似たような事象からは似たような結果が生まれる」という言葉を『人性論』に書いているようだ。
(ここからは私がすでに思いついていたこと)
共感とは、思いやりである。人間は、相似関係を拡大縮小して把握する能力がある。自分の経験と相似の関係にある他人の経験に対しては、拡大縮小の能力を用いて思いやる。自分のある経験Aでは、ちょっと悲しい気持ちになった、のであれば、他人の経験AダッシュがAよりドデカイ経験であるならば、相似関係から拡大縮小して、Aでちょっと悲しい気持ちだったら、Aダッシュでは猛烈に悲しい気持ちになるだろう、という思いやりである。
(よって考え出したいこと)
思いやりが道徳の基盤であると言い換えてみたい。これが、主張の倫理的アプローチの一つであり、ここでは、その思いやりという倫理に論理的仕組みはなさそうである。

物書き  2011/11/24(木) 10:32:23
 人間は生まれたときは白紙である、その後の経験により自分というものは形成される、という経験論に立つならば、物書きの才能というものはない。あるとすれば、経験に裏打ちされた才能である。ということは、経験は訓練により強化される。練習をすればいいということになる。

相場  2011/11/24(木) 06:21:39
 愚かなことだと笑ってください。とりあえず、日々の勉強時間確保の為に、デイトレどころか短期、中期の相場は断念しました。問題は、借金返済です。株とどうしても手が切れない。そこで、愚かなのは重々承知の上、月々の返済額を限界まで減らして、浮いた枠で株の積み立てをすることにしました。借金完済予定は再来年末くらい。積み立ての内容は、三菱商事、三井物産、住友商事の総合商社にそれぞれ一万円づつです。この積み立ては、個人年金のつもりで楽しんでやりたいのですが、しかし、使途はあくまで個人年金限定としたいつもりです。この3万円だけは、コツコツと地道に積み立てていく習慣にしたいと思っています。

ちょっと待ったぁー!  2011/11/18(金) 18:52:05
 今、山川の『もういちど読む日本史』というのをやっているのですが、数学と日本史では勉強の仕方が違ってきてしかるべきなのかもしれません。とにかく日本史は、通史を早くあっさりとやって、とにかく興味の持てる部分を知ることが先決で、そこから細部に降りていく、というやりかたが必要なのかもしれません。そうすることで、もっと別の時代の細部を知りたくなるといういもづる式が発揮されるのかもしれません。

勉強  2011/11/18(金) 18:44:57
 常々、自分の勉強の仕方を残念だなぁと諦めていたことがあります。
数学や物理の場合は、教科書の一章、二章、とあったとして、導入部分を納得しただけでは済まず、練習問題はやるはずです。つまり、ある程度わかるまでやるはずです。所が、日本史や英語、経済の場合、導入部分を納得すれば、とにかく先に進みたいのです。わかるまではやらない。論理・理屈を理解するのが面倒くさい部分はすっとばしてしまう。焦りでしょうか。うっすらとでも全体をカバーしておきたい、そんな自分の気持ちもわかるのですが、先に進むことよりも理解することが大事なのですから、教科書を先に進むことが第一ではいけません。それがどうも自分にはわかっていないようなのです。

歴検  2011/11/17(木) 16:41:26
 アマゾンで歴史本を物色していたら、なにやら歴史検定らしきものがあるようなので調べてみると、「歴史能力検定試験」というものがあることがわかりました。最上級の1級から5級(小学校修了程度)まであるようです。小中学校修了レベルでは日本史と世界史が同一試験内に含まれるようですが、上級に行けば、日本史と世界史にそれぞれ別れているようです。この歴検を目標に勉強するのも刺激があるかもしれない、と思いました。

朝活  2011/11/17(木) 09:48:27
 相場はお休み中です。
所で朝活ですが、どうもプレッシャーがのしかかってきまして、結局、挫折してしまいました。正確には、朝活手帳の活用を辞めただけで、朝活そのものは続けています。朝活手帳の代わりになるものはないか?と考えていたところ、ナイスアイデアを思いつきました。それは、日課となるもの、やりたいことなどを、ワードに太文字で箇条書きしたものを毎朝、プリントアウトして活用します。単純に、「新聞配達」と箇条書きしてあれば、終わったら横線を引いて消す、「朝英語」と書いてあれば、実行に移せば同様に横線を引く、というものです。今日で二日目なのですが、かなりしっくりきています。「朝活手帳」経由で知ったことなのですが、ワタミの社長は、この「横線を引いて消す」作業を、「とどめをさす」と呼んでおられるようで、その行為にも意味があるようです。実際にやっていて、楽しいというか、気分がスカッとします。「草学者」という項目も書いているので、なにかしらタッチしたら、「とどめをさす」ようにしました。毎日プリントアウトするものは、全く同じものです。更新はしていきます。今後、曜日ごとに項目を変えていくかもしれません。

草学者  2011/11/10(木) 19:25:46
 目の調子が悪い中、こちらの日記帳に草学者的な書き込んだものをワードに分類して貼り付けしていまして、先日完了しました。で、パソコンで字を見ると眼精疲労がひどくなるので、まだマシな紙の文字にするために、「主観と客観」という項目のものが8ページくらいになっていたのでプリントアウトして見てみました。もうびっくりくらい、内容がない、中身がない、残念な内容です。表現不足も手伝っています。唯一、「アイデンティティーの確立」に関する文章だけは、手直しすれば役に立つかな、という感触です。他の項目のものも同じく内容がないかも、と思うと、正直、がっくりきました。もう諦めようかなっていう気持ちに支配されていますが、なんとか踏ん張りたいです。
とにかく目の調子が悪いです。セカンドオピニオンも考えていた方がいいかもしれません。

言いたいこと  2011/11/03(木) 16:52:58
 帰納と演繹が論理を構成する重要パーツであるならば、つまり、論理は、単純化しすぎると、帰納と演繹により、つまり論理が詰将棋のように一つに帰着することはない、ということです。

単純化の危険性  2011/11/03(木) 16:49:07
 数列が一つあります。あなたは、何を想像しますか?


1,2,・・・・・@


今の私の能力から言えば、

場合A・・・2の次に「3」、が来るのであれば、
場合B・・・2の次に「4」が来ることが確定します。
(ちょっと今の学力では、この二つしか思いつきません)

つまり、私は、帰納と演繹と経験を使って、3と4を導き出しています。
1と2の二つの数字から帰納法を用いて法則性を見出すとするならば、Aの等差数列とBの等比数列の二種類を導き出します。その後、帰納された二つの等差と等比の法則性を用いて、「3」と「4」の数字を演繹して予測します。しかし、AとBの数列は初見ではありませんので、つまり、1,2,3,・・・という数列や、1,2,4,・・・という数列を数列の授業で習っていますので(もうほとんど忘れていますが)、厳密には、帰納と演繹を人類史上初めてこの数列に適用したとは言えません。

本題に入りますと、n=3、つまり3個目の数字である「3」か「4」が記入してあれば、4個目以降の数字がすべて演繹可能です。予測可能であるわけです。この場合に限って言えば、サンプルは3つあれば十分だということですが、何が言いたいのかといえば、サンプルを二つまで減らして単純化した場合、結論(結果)が二種類(複数)に分かれてしまう、もっと言えば、単純化しすぎると、結論が複数に分かれてしまうということです。

世の中には、難しい話(サンプルが多い)をわかりやすく伝えるために、例え話(サンプルが極少)を使いますが、その場合、解釈(演繹作業、還元作業)が複数現れる可能性が無視されているのではないかと想像しています。


(思いついたときは、イケてると思ったのですが、ここまでくると駄作だったなと思いました。しかし、私の気持ちを伝えたいのです。)

新しい10 昔の10  100新しい方へ移動 100昔へ移動

一覧へ戻る