晩年ニートの成り上がり さんの日記

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こんな表現  2011/12/21(水) 11:08:25
 このままだと、私はダークサイドに落ちてしまいそうです。フォースを身に付けなければなりません。

核武装論  2011/12/20(火) 03:09:51
 ちょっと気になって、ウィキペディアの核武装論を覗いてみました。
とてもわかりやすい内容でした。思弁でなんとでもなる範囲です。
問題はNPTの存在でしょうか。国連から脱退しなくても、NPTから離脱できるようですが、もし日本が核武装したら、NPTの例外である核保有国以外の地球上のすべての主権国家が核武装する論理が鉄壁になってしまいます。つまり、日本の核武装=諸外国の核武装です。まあ、お金があればの話ですが。

所で、気づかなかったのですが、結局、またしても私は核武装問題を道徳の問題と捉えているようなんですね。主権国家すべてが核武装するよりも、先制攻撃のための核兵器そのものをゼロにするという、多大な努力をして、人間的に高みに登ろうよ!という倫理感を獲得しようという目論見です。でも私に道徳を語る資格があるのか?という疑問もありますしね。

しかし実に稚拙な問題ですよね。「論」って、滑稽そのものです。

概念を問題にしている訳ではない  2011/12/20(火) 02:09:14
 人間は、意志という概念を継承している。
感情によって形作られている「意志」という概念ならば、連続である。

しかし、概念が問題ではなく、概念の中身が問題だ。

「核兵器を使いたい」という感情は、人類は継承するだろう。しかし、先ほどの悪意と同じで、その感情を理性により制御し、道徳により抑制する。

やっぱり、「論理」を二種類に分類しないといけません。数学や論理学のような「絶対論理」と、他の「不確実論理」のように。

所で、「核兵器を使う」というのは、論理で使うのか?感情で使うのか?腹が立つから核兵器を使ってやろう、というものではない。しかし、「やられたらやる」というのは論理か?これは明らかに、「不確実論理」に区分される。絶対論理と不確実論理の違いは、そこに主観が介在するか否かであると思う。主観は何で形作られているかと言うと、イデオロギー、価値観や道徳観、宗教観、他にも一杯ありそうだ。ここを収集しなければならない。
核兵器を使うことを肯定する「不確実論理」は、「目には目を。歯には歯を。」であろう。もしくは、自国が滅亡するなら、核兵器を発射した国も滅亡させてやろう、という感情か?核兵器が主体の世界大戦まで拡大させないために、二国間の問題にとどまらせるためか?そもそも、何のために核兵器で先制攻撃するのか?他国を滅亡させるために核兵器を発射すると撃ち返されるから自国も滅亡するという、「絶対論理」が存在するので、核兵器による先制攻撃は成立しえないのか?つまり、核兵器とは抑止力の為のもので、使うことは前提にないのか?しかし、テロリストが核兵器を所持すると、その絶対論理が成立しないので、先制攻撃があり得る。
う〜ん、何のために核兵器を持っているんだろうね?先制攻撃の為ではなく、報復攻撃の為か。先制攻撃は不確実だけども、報復攻撃は確実なんだ。じゃあ、「目には目を。歯には歯を。」は不確実論理ではなく、絶対論理になる。通常兵器では不確実論理だけども、大量破壊兵器では絶対論理なのだろう。キューバ危機のときは、どうやら、ソ連側が譲歩したようだが、それは、単にアメリカ全土を射程に収める核ミサイルを持っていなかったし、数量的にもキューバに配備していたものだけだったから譲歩せざるを得なかったみたいである。つまり、敵国を一気に滅亡させる核兵器があってもなくても、先制攻撃しない絶対論理があるのだろう。しかし、当然、核兵器を撃ち返される可能性がゼロだった場合は、核兵器による先制攻撃がありえるのかぁ。

●先制攻撃をするための核兵器自体をゼロにしましょう。
●先制攻撃をされないための報復用の核兵器を抑止力として所持しましょう。

とりあえず、この二択ですね。しかし、どっちが簡単か?がファクターだとしたら、情けない限りですね。結局は、どっちがお手軽か?ということですかね。なんか小学生みたいだな。

ちょっと朝の文章を読み返しました  2011/12/20(火) 01:05:49
 ●理性によって形作られる論理は連続する。
●感情によって形作られる意志は不連続である。

と、とりあえず止まっています。

では、恋だとか愛だとかは、人類史上、連続している概念?なのですが、連続している以上、それらは理性によって形作られているからだ、となります。

はぁ?・・・

恋だとか愛とは、感情で形作られているはずでは?

私は女優の北川景子が大好きである。感情的である。しかし、その感情は、恐らくは時間とともに薄れ、他の若い女優に目が行ってしまい、つまりその感情は不連続である。

つまり、恋心などの感情が連続するのではなく、「恋」や「愛」の「概念」が連続しているのである。

人間は、生まれながらにして「恋」や「愛」の概念を継承している。これは、経験によってではなく、先天的に持っているものである。例えば、ある男の子が、ある女の子を考えると、なんか変な気持ちになった。そのことをお母さんに伝えると、「それはね。あなたがその女の子を好きになったのよ」と教える。その男の子は、「ああ、これが好きになる、ってことなのか」と学習する。つまり、「好き」っていう概念の中身である、「変な気持ち、ドキドキする気持ち」はその男の子が生まれながらにして持っていたものである。その気持ちが発現したその後から、その気持ちを「好き」っていう概念として学習する。

感情によって形作られる、人を憎む気持ち、殺意、も継承されている。意地悪になる気持ちも継承されている。それぞれ、人は皆、生まれながらにして持っている。その感情によって形作られる気持ちとしての殺意などを行動に移すと、道徳違反になる。道徳によって戒められる。

感情の存在が問題ではなくて、それを行動に表すことが問題になる。

感情を制御するのが理性だとよく言われる。また、殺意や悪意を行動に表すことを抑制するのが道徳だとも言える。

つまり、道徳も理性によって形作られている?

●カントは、道徳とは理性によってもたらされる、という。
●ヒュームは、道徳とは感情によってもたらされる、という。

すくなくとも、今回の殺意という感情のコントロールは、道徳という理性によって行われていると、カント説に軍配があがるようである。

実存主義  2011/12/20(火) 00:32:13
 先週金曜日の高校講座「倫理」を聞き終わりました。実存主義について教えていただきました。キルケゴール(19世紀前半)→ニーチェ(20世紀)→サルトル(20世紀中盤)と展開していったのですが、各自、特色が当然大きく扱われたのですが、肝心要のそれらを貫く「実存主義」に関する説明がぼんやりとしていた感じです。結局、読み取れたのは、「主体性(個)が大事である」という点です。とにかく衝撃を受けたのは、「ああ、私の言う主観主義とは、まさに実存主義のことかもしれない」ということでした。実存主義に関する説明をいくつかを私の解釈で説明してみます。

これを軽視?もしくは否定する→「理性による概念把握」(つまり、一般論のこと。一般的にはこうだ、ああだ、ということ。「りんご」という概念があるとする。個別の品種そのものに関する言及よりも、個別の品種それぞれに共通する「りんご」の性質という、りんご一般を把握すること。リンゴの品種である、「ふじ」と「つがる」の違いがどうだとか、こうだとかは言わない。個々の問題は問わない。りんごという概念を活用することが大事である。とりあえず、個々の小さな?違いは目をつむって、「りんご」という一般的な性質を利用する。もちろん、それよりも大きな概念である、「果物」という概念を人間は理性によって使い分けることが可能である。)


実存主義とは、この理性による一般論よりも、個々、個人個人の主体性を重要視する。人間とは一般的には、こんなもんだ、こうあるべきだ、ということよりも、自分は主体的にこうあるべきだ、という個々の問題を重視する。例えば、「悩み」とは、他人には決して理解されない、自分自身にしかわからない、そして、他人は解決してくれない、自分が主体的に解決するべき問題だ、ということです。以下のアプローチを否定します。人間の悩みとは一般的に、A、B、C・・・とあるものだとするなら、自分の悩みはどれに該当し、それぞれの一般的解決法を活用すれば一般的には解決するはずだ。私の誤解釈かもしれませんが、実存主義は経験論に立脚していて、自分の悩みは自分にしか解決できないのだから(何故なら、自分の悩みは、他人には理解され得ないから)、解決策は自分の経験の中にしかない、ということなのだろうと思いました。さらに思い切った解釈を、先の例えを使っていえば、「りんご」という概念を用いるような、一くくりのようなことはしない。「ふじ」とは何か?「つがる」とは何か?その違いは、「りんごとしては大差ない」なんて言わずに、大きな違いがあるのだ、とする。個々の存在を大事にする。「ふじ」を、ふじたらしめるものは何か?「つがる」を、つがるたらしめるものは何か?よって、「ふじ」と「つがる」には大きな違いがあるはずだ、ということです。とどのつまりが、極論すれば、概念は使用しない。もちろん、分類もしない。あるのは、「個」である。ただし、その「個」が、どのレベルまでを言うのかわからない。わかっているのは、人間という概念があるとすると、その「人間」という概念は使わず、個人個人のレベルが最小単位である。細胞だとか、分子だとか、原子まで「個」を追及するわけではない。後、私の知る限りでは、「実存主義の大前提」があるはずです。「個」である「私」が、絶対的な存在として、完全無欠の客観的存在である、とするものです。他人がいるから「私」が相対的に把握(存在)されうる訳ではなく、「私」は「私」として大宇宙に存在している、というものです。これは、私はニュアンスとして理解しているだけで、納得して説明はできません。今もうまく説明はできません。

「日本人」というものは「分類」であり「概念」ではない、と言われるかもしれませんが、身近なものに当てはめると、地球の中では「日本人」と一くくりにすれば便利かもしれませんが、それだと、明らかに「個」を軽視していることになります。そうではなくて、日本人一人一人が重視されるべきです。「中国人」も「アメリカ人」も、ありません。あるのは人間個人個人であるわけです。「一般的に言って、日本人とはこんなもんだ、あんなもんだ」なんて軽々しく言ってはならないことになる、のかな?・・・。となってくると、私の主張とも違ってくるなぁ。私は、個別的具体例(個々)から帰納的に一般化し、その一般的法則から演繹して個別的具体例(個々)に還元する、という基本的な学問的手法を重視したいわけです。だから、実存主義の戒める一般化が、私には必要不可欠なのです。

続き  2011/12/19(月) 07:09:00
 理性が材料である論理は意志に左右されず、存在する。
倫理は意志に左右されてしまう。意志とは、感情が材料である。理性が材料ではない。

正直言って、理性や感情という言葉の意味がわからない。

未来予測  2011/12/19(月) 07:06:57
 とりあえず、論理という概念に連続性があるならば、同様に、論理の中身も連続するはずだと、予測可能である。
もしかしたら、倫理という概念にも連続性があるかもしれない。

しかし、論理には絶対的価値がある、倫理には意志的価値がある、と言ったとする。

絶対的価値とは、価値があり続けるということであり、人類は、論理に価値を見出さなくなる、などということはない。人類の意思として論理に価値があるとかないとか、そういうものではない。そもそも、価値のある存在として、世界(人類の存在する範囲)に存在している。絶対的に客観的な存在として、そもそも、この世界に絶対的価値は存在する。
意志的価値とは、人類の意思によって、時に価値があるとみなされ、場合によっては価値が薄れたり、全く価値がないとみなされたりする、実に不完全な価値のことである。人間の意志が薄弱になったり、なくなったりすると、その価値もまた、軽くなったり、なくなったりする。意志的価値の重みは、人類の意志の強さに連動している。

人類の意志に左右されない絶対的価値は連続するが、人類の意志に左右されてしまう意志的価値は、不連続な瞬間が存在する。それほどまでに、人類の意志とは薄弱なものである、と私は思っている。

意志とは理性のことであるならば、理性とは万能ではない。
よって、論理には連続性があり、万能であるから、論理は理性よりも上位の、優秀な、有難い概念である。

いやいや、理性とは約束のことであるとするなら、論理も定義という約束の上での存在なので、論理とは理性の一部であるか?意志とは論理よりも、ふわふわした、不確かな、あいまいな可変なものだとすると、意志とは感情によるものか?だとすると、理性が材料で作られるものは連続であり、感情が材料で作られるものは不連続である。

概念としての論理と倫理  2011/12/19(月) 06:27:54
 論理という概念が存在するからこそ、論理の中身(論理と意味づけされる、色々なもの)は、未来永劫、伝承されるはずだと予測される。それほどまでに、人類は、「論理」という概念に価値を置いている。
所が、倫理という概念はどうか?論語の「自分の望まないことを他人にしてはならない」という倫理規定は、未来永劫、生き続けると想像できるのか?どうも自信がない。

日本国民  2011/12/17(土) 18:44:06
 日本国民が憎くて憎くて、仕方がない。

憲法  2011/12/17(土) 18:42:47
 「核兵器は、何度使用してもよい」という言論があるとするならば、それは憲法によって保障されているのだろうか?
私は保障されていないと思う。憲法違反だと思う。何故ならば、その言論は、明らかに「言論の自由」という権利の濫用であると思う。

日本国民の権力濫用は、目に余るものがある。それでいながら、他人の権力濫用には口うるさい。小姑が沢山いる。

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