晩年ニートの成り上がり さんの日記

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政治家とか医者とか教師とか  2011/06/13(月) 12:01:37
 政治家は、自分から進んで手を挙げて政治家になったのだから、政治家が努力するのは当たり前である、という意見があると思います。医者とか、教師とかも同様です。私は、これは明らかに責任の丸投げであると思っています。政治家とか医者とか教師とか、誰かが絶対にならなくてはならない。その「誰か」の中に、自分は含まれていないなんて発想は、少しおかしいんじゃないかと思う訳です。政治家になるには、医者になるには、教師になるには、実はそれは面倒臭い思いをしないとなれない事を知っている。政治家になることは、実は面倒臭いことである。その面倒臭いことは他人におしつけてやりたい、と思う。その他人に面倒臭いことを押し付けておきながら、彼らは自分で進んで立候補したのだから、彼らが面倒くさいと思うのは当たり前だろう、という発想は、おかしくないかい?と思う訳です。「自ら進んだ道だろう!」という主張を認めろと言うのであれば、「他人の仕事ぶりがそんなに気になる、口出ししたい、というのであれば、自分が立候補したら?」と言い返されることも認めないといけないと思うんですよね。いや、俺には俺の生活がある、民間企業の仕事は、それは花形で、おいしい汁が吸える仕事であるからそれを選んだんであって、政治家とか医者とか教師とか面倒くさい仕事は他人にやらせておけばいい、そんな発想が許される訳がない。こんな輩って、自分の都合の良いことはなんでもかんでも比較検討しておきながら、自分の都合が悪くなると、「いや、それとこれとは別問題であり、比較できないものである」と言い出しかねない。

実になんだかなぁ、と思います。

  2011/06/10(金) 08:07:16
 日東電工が芳しくなく、元々は社長との細い縁を感じて資金を投入したのですが、やっぱり株価が弱いと面白くありません。で、乗り換えも検討し始めたのですが、来週月曜日の引け後に日東電工の5月の月次速報が発表されるのですが、それを受けて乗り換えをするかどうか決めようと思います。乗り換え先の第一候補は、多結晶シリコン主力の化学メーカーのトクヤマです。トクヤマは今、とにかく工場建設などの投資を思い切ってやっています。市場の見方は、他にも多結晶シリコン向けの工場建設をしているメーカーは沢山あり、将来、明らかに多結晶シリコンはダブつくはずだから、設備投資はは過剰だ、というものだと思われます。よって、株価は以前の低迷期の株価水準に落ち込んでいる所です。しかし、会社側の思いは強いみたいで、2013年度稼動の多結晶シリコン向け工場だけでなく、15年度稼動の工場も投資決定したようで、会社側の思いと市場の評価は乖離するばかりです。この状況は逆に言えば、会社の思惑を信じて、そしてそれが当たればリターンもデカイことになります。ワクワクしますねぇ。もっとも、来週月曜日の日東電工の月次次第ではあるのですが。さて、どうなることか。

主観と客観の一体説  2011/06/05(日) 19:42:23
 主観と客観は一体である。
主観は客観により、フィードバック、アップデート、ブラッシュアップされる。
そうすることにより、主観は鍛えられ、同時に客観も意識できる。
主観と客観は癒着、浸潤関係にある。

倫理と論理  2011/06/02(木) 23:34:13
 倫理に論理的仕組みをもたせると、まどろっこしさを感じる。本来、倫理とは論理を経由して成り立っているものであるが、人間が成長する過程で自然とその論理性を当たり前のものとして処理している感じがします。表現は稚拙なのですが、倫理は出発点では論理として受け取るものの、人間として成長する過程で、その論理性を無視して倫理として処理する、そんな感じでしょうか。だから倫理は、最初は論理として誰かが教育しなくてはならない。そうでなければ、人間として成長する過程で、観察を通して帰納的に論理を発見して倫理をはぐくまなければならない。

●教育された倫理
●体験により発見した倫理

この二つの違いは、なにかありそうです。

倫理とはなにか?  2011/06/02(木) 23:10:45
 「電車の中で、人に席を譲るのは良いことだ」

これは倫理でしょうか?

実は未だに倫理についてよくわかりません。「論理」についても同様ですが、しかしこれは倫理に比べると、なんとなくわかります。で、先の一文ですが、人に席を譲ると言っても、子供に席を譲るのと、高齢者や妊婦に席を譲るのでは意味が違ってくるように思います。これはもしかしたら儒教的な教義からくるのかもしれませんが、そうであるなら、やはり先の一文は倫理なのでしょう。私がここで問題にしたいのは、今回の倫理的文章に、論理的な仕組みを持たせるとどうなるのだろうか?ということです。

「私は今、電車の中で座席に座っている。妊婦さんがホームから入ってきた。混雑する電車の中で妊婦さんを立たせるのは、胎教?によくないのではないか?子供は国の宝だ。安産させてあげなければならない。子供を大事にしない国は滅びる。だから席を譲ってあげよう。」

正直、全然心が温まりません。まあ、私の例文が稚拙なのかもしれませんが、倫理をストレートに受け取るならば心は温まるのだけれども、これに論理的仕組みをもたせると、何を言ってんだコイツ?的な感じを受けます。確かに幼児に倫理を教える場合は、論理的な仕組みをもたせないといけないのかもしれませんが・・・。

倫理はどこからくるのでしょうか?論理が帰納法によりもたらされるのであれば、これは観察という経験からくるものではありますが、書物などから知識として、自身の体験をすっとばして受け取ることが可能です。では倫理は・・・?多分、親、幼稚園の先生、学校の先生、地域のみなさん、などなど、教え方が上手いのかわかりませんが、なんか自然に身に付けるような気がします。が、よくわかりません。

ブログについて  2011/06/02(木) 20:18:36
 連絡が遅くなりました。
OCNは先月一杯で解約しましたので、(更新していない)ブログも解約になりましたので、リンクを削除いたします。今までありがとうございました。

論理とはなにか?  2011/06/02(木) 07:02:00
 論理とは諸刃の剣だと思います。相手を貶めるために鉄壁の論理とやらを使うのは気持ち良いのかもしれませんが、この時、その論理とやらは、いつの日か自分を苦しめることになる可能性があるはずです。他人に向けた論理とやらが、いつか自分に向かってくるかもしれない危険性を認識した上で使うべきもの、それが論理とやらではないでしょうか?
つまり、論理とやらは、自分にとって都合の良いものではない、ということです。自分の思惑、立場を完璧に防護すると思われた論理とやらは、もしも本当に完璧に防護しているのであれば、それは確実に論理とやらではないし、当然、他人に受け入れられるべき客観的な強制力を持つ、論理とやらではないでしょう。
一般的に言われる「論理とやら」とは、あたかも世界共通語のようなもので、客観的であり、普遍的であり、本質的であり、誰に対しても通用するものであろう、そんな神話を指していると思われます。これが実に、実証主義と相性が良い。論理とやら、事実とやらを、「さあ、これはどうですか?」とテーブルにのせさえすれば、世界中の紛争は論理とやらの世界共通語によって解決するとでも思っているお目出度い方々が実証主義者です。
もちろん、気持ちはわかりますし、論理とやらは世界共通語としての一定の役割は担っていると思います。しかし、これが万能だと思っていはいけないはずです。相反する二つの論理展開は存在します。
今の所、私が把握している論理の不得手をカバーするものは、トレードオフを認めること、多数決システムを採用すること、でしょうか。

思いやりとはなにか?A  2011/06/01(水) 17:43:05
 思いやりとはなにか?

●倫理的思いやり(主に主観による)
●論理的思いやり(主に客観による)

訂正  2011/06/01(水) 08:37:09
 ほぼ終わりの「機能的論理」は、すべて「帰納的論理」です。

失礼しました。

訂正  2011/06/01(水) 08:27:04
 中段の右端の、「逆に演繹的に、」
という部分は無視してください。
続きが思い浮かばなかったのですが、「逆に演繹的に、」だけは残してしまいました。

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