共感 2011/08/10(水) 13:00:39 |
| 共感する者同士、付き合うことになった。 共感できなくなったとき、別れることになった。 これでいいのでしょうか? 付き合うことの条件は、共感し合えることでしょうか? 別れることの条件が、共感しえなくなったときだとしたら。 共感できなくても付き合えばいいし、 共感できても別れればいい。 なんかこう、他に条件があるような気がしますよねぇ。 真理を探すためには深くへ入り込まなければいけないとか、幻想じゃあないでしょうか。 あえて真理と言うなら、それはもっと、表層にあるような気がします。 なるほど、幸せの青い鳥のことですね! |
FX 2011/08/08(月) 18:13:45 |
| 豪ドルは結局、証拠金を割り込んでいたのを発見したので、これ以上の無理は出来ないと判断して損切り、証拠金を株に戻しました。ぼーっとしている間にも値段の動くものがある、というのがFXの魅力だと感じていたようで、ポジのなくなった今、かなり寂しい気持ちです。協調介入を当て込んで始めた米ドル買い参戦から、結局8万近く損してしまいました。FXは当分、自粛です。 |
倫理に関して訂正 2011/08/07(日) 12:57:25 |
| 倫理は、教育により、学習は出来る。論語の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」を知識としてインプットすることは出来る。だから、それを導出することは必要ないのだけれども、別の表現として、「証明」はしなければならない。証明したことにより、「納得」することになる。納得は、経験、体験、追体験により可能となる。しかし、納得はできるけども、「体得」、「会得」はできない。論理の免許皆伝はできるかもしれないけども、倫理の免許皆伝は、未来永劫できない。よって、人類は、同じ間違いを繰り返す、という真理が確定する。 |
教育 2011/08/07(日) 10:20:36 |
| 「教育」ということは、物凄い人類に有効な社会システム?なのだろうと思った次第です。もし、日本に、教育というシステムが組み込まれていなかったら?と思うとゾッとします。しかし、世界を見渡せば、教育と言うシステムが組み込まれていない、もしくは有効に作用していない国々があるのだろうと想像すると、偉い人はなんとかしてほしいな、と思ってしまいます。 |
渋沢栄一 2011/08/07(日) 07:34:16 |
| 城山三郎さんの小説で、確か『雄気堂々』だったかな?で渋沢栄一をモデルにしていたと思いますが、これまた確かあとがきだったと思いますが、奥様の言葉が紹介されていて、「主人は、とても論語を大事にしていました。何故なら、浮気に関しては戒めがないから都合が良かったのでしょう」といったニュアンスでしたが、これを読んで、「渋沢栄一、死ねぇやw」と思ったので、結局、『雄気堂々』は読んでいません。なので、渋沢栄一がすごいとも、全然思いません。 |
賽の河原の石積み 2011/08/07(日) 07:06:04 |
| 賽の河原の石積み、を思い出しました。 石を積む。崩される。石を積む。崩される。石を積む。崩される・・・ 未来永劫、色あせることのない真理、それが倫理でしょうか。 人は生まれ、倫理を証明し(ああ、論語の言っていたことは正しかったんだな、と気づく)死に、生まれた人はまた、同じことを繰り返す。 しかし、論理は、色あせることがある。間違っていたと気づくこともある。これまで100年間正しかった論理が、今後100年間も正しいとは言えない可能性が残る、それが論理でしょうか。 |
ちょっとカッコイイ表現 2011/08/07(日) 06:59:31 |
| ●論理とは、ストック型である。 ●倫理とは、フローである。 |
論理と倫理 2011/08/07(日) 06:53:20 |
| @論理(理性)は伝承できる。 A倫理(感情)は伝承できない。 ●「伝承できる」とは、例えばピタゴラスの定理という理性の果実、導出された結果(aの二乗+bの二乗=cの二乗)を自由自在に使う事が出来る。利用者は、わざわざ一から考えて、結果(定理)を導出してから使う必要はない。結果の恩恵に即座にあずかれる。その結果を出発点として、さらなる高みに登れることが出来る。つまり、ピタゴラスの定理が発見される前よりも、進歩した状態に移行できる。
●「伝承できない」とは、例えば論語の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ(自分の望まないこと、嫌なことは、人にしてはいけない)」という倫理の場合、一見、明文化されて代々、受け継がれていることから、伝承されていると表現できるのかもしれませんが、先のピタゴラスの定理の場合と比べて、人間は進歩した状態に移行できているのか?と問われれば、そうは言えないわけです。「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という状態から人間は進歩していると言えるでしょうか?そうではなく、人間は、生まれて成長する過程で、つまり人生経験を積む過程で、その倫理を一から導出しなければなりません。その倫理に辿りついたとしても、自分の望まないこと、嫌なことでも、人に平気でやってしまうことが往々にしてあるという結果を見るに、その倫理を導出できたとしても、人類はそこから先に進歩している、先に進んでいる、より高みに登っている、とはとても言えたものではないと思う次第です。「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という真理を有効活用できていないのです。ピタゴラスの定理という真理は有効活用して、どんどん先へ進んでいるというのに、人類は、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という文言をいつまでも、いつまでも有難がって、そこから先に進むことは泣く、いつも、いつも、堂々巡りです。人生経験を積み、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という定理の導出に成功した後でさえ、それを人生に生かすことは出来ません。「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という文言は確かに、代々受け継がれているけれども、人類はそれを役に立てているのだろうか?有難い、有難い、と拝んでいるにもかかわらず。
●論理(理性)は伝承できる。これが人類は進歩できる原因である。 ●倫理(感情)は伝承できない。これが人類は同じ間違いを繰り返す原因である。 |
喧嘩 2011/08/06(土) 09:30:14 |
| ●論理をぶつけ合う ●感情をぶつけ合う 論理は詰め将棋ではありません。主観による解釈が多分に含まれています。こんなくだらないものをぶつけあって、何が建設的なのでしょうか?感情をぶつけあったほうが、余程、建設的です。 |
真理の伝承A 2011/08/06(土) 09:22:41 |
| 現実的に、一から経験することが出来ない場合、追体験に頼ることになります。追体験は、誰かの「表現」をなぞることです。その表現は、小説やテレビなどの言動に頼ります。その言動に、ヒントがあります。ヒントは主に、因果関係で形作られます。「こういう時はこんな気持ちになるんだ、そうなんだ」などです。言動により認識される因果関係は、感情により自分に記録されます。人間は思いやりがあります。思いやりは、主観により形作られます。「自分はこんなとき、こんな気持ちになった」という経験による主観を活用して、他人が「こんなとき」になったら、あんな気持ちになるはずだ、という予測を利用します。論語で言う、「自分の望まないことは、他人にしてはならない」ということでしょうか。ところで、現実的には、「こんなとき」という場面は、全く同じとはいいきれません。「あんな気持ちになる」というものも、同じ「量、程度、度合い」とも言えません。人間は、ここら辺を巧みに、重ね合わせます。理性か、もしくは経験によって学習した比例関係を利用して、拡大・縮小し、他人は、「こんなとき」に「あんな気持ち」になる、という予測をします。これが思いやりです。「私は道で転んだとき、痛かった」ことを利用して、「痛さ」の比例関係を利用して、例えば、「他人にぶん殴られると、もっともっと痛いだろう」という予測をします。自分が道で転んだときの痛さの何倍もの痛さを感じるのだろう、という予測です。これら、感情、感覚は、伝承できません。宗教などにより、明文化され伝承されていたとしても、経験は出来ないとしても、せめて追体験しない限り、感情、感覚を先代から受け取ることは出来ません。倫理は、ピタゴラスの定理のように理性で伝承は出来ず、自分が経験することにより、もしくは追体験することにより、強化されます。「鉄アレイ500グラム」が足に落ちたときと、「鉄アレイ1キログラム」が足に落ちたときは、痛みが2倍違ってくるのではないか?という理性的な予測をすることが出来ても、実際には、本当に足に落ちてみないとわかりません。 「飲酒運転をしてはいけません」これは、ある程度、経験により学習できます。「覚せい剤に手を出してはいけません」これは、自分で経験により学習することは難しいです。しかし、「依存症」という概念を活用すれば、拡大・縮小の比例関係を利用して、「覚せい剤の依存症による苦悩」を推測することが出来ます。タバコはニコチン依存症のために、禁煙することが難しい、という体験をしていれば、「覚せい剤は人間を破壊してしまう」という追体験による学習とあわせて、覚せい剤依存症はニコチン依存症の数百倍、数千倍もツライものである、という予測が出来ます。でもやっぱり、ニコチン依存症はつらかった、という感情、感覚に頼ることになります。「ニコチン依存症は大変ですよ」という文言だけから学習することは難しいでしょう。やはり、何かを体験した上での感情、感覚を出発点にして、別のものを連想するしかありません。 理性によって伝承できないものでも、感情、感覚を利用することで、伝承可能な真理がある。 経験や追体験は、とある因果関係を導き出すのですが、「あんなときは、こんな気持ちになる」とかで、すまり、理性と言う果実ではなく、感情と言う果実を、経験や追体験は生み出している、と言いたいのです。その感情は、別の現象を想像、連想、予測するために役立つのです。これが、思いやりの素です。思いやりは、論理ではなく感情で構成されています。 |
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