晩年ニートの成り上がり さんの日記

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まずい  2011/05/24(火) 08:18:48
 日東電工の気配が良い。これは悩む・・・。もしかしたら、信用のポジションは解消しないかもしれません。

  2011/05/24(火) 06:36:59
 そう言われれば、今の株資金はすべて今回の大震災で儲けた金額なので、これを絶対に失う訳にはいきません。どうしても確保しておきたい。で、米ダウ平均が二日連続で100ドル以上下落しているのと、なんとなく不穏な感じがすることで、信用取引のポジションは解消することにしました。ポジションが気になって、株価をチョコチョコ見たりするのも時間がもったいないからでもあります。
信用取引はもう少し落ち着いてからにしたいと思います。

構造主義と民主主義  2011/05/21(土) 22:25:23
 構造主義をシンプルに、「物事は色々な角度から見ましょうね」と言い換えるならば、それは中途半端、どっちつかずの印象から逃れられません。それが、民主主義により多数決で決めれば良い、と言われて、おお、これは構造主義の弱点を解決するものではないか!なるほど、民主化を強権的に急ぐアメリカの気持ちもわからないではないなと思ったものの、民主主義とはドメスティックな解決策であり、世界に開かれたものではないことに気がつきました。主権国家が生まれ、内政干渉が難しくなり、戦争という手段も奪われた今、地球連合でも作らない限り、民主主義の多数決システムを利用する手段はないでしょう。しかし、国際連合の出鱈目な多数決システムを見ると、正直、国際連合の演説で無頼漢ぶりを発揮する人物に対しても、共感する部分もあったりします。合成の誤謬と言いましょうか、仮に各国が民主主義を採用したとしても、つまりドメスティックな解決策しか持たない、地球連合が存在しない現在、民主主義も不完全と呼ばざるを得ないのですね。「地球」に対するカウンターが存在しない以上、地球が一つにまとまる可能性は薄いかもしれません。SFでもなんでもなくて。地球も、相対化されて初めて、「●●星人は××だからこうしよう」的な発想をして初めて可能性が見えてくるのかもしれません。

主観による取捨選択  2011/05/20(金) 20:59:57
 「取捨選択」とは、一見、客観フィルターを通す過程と思われますが、
私には所詮は主観的作業であると捉えています。(ここが複雑なのですが。)

「論理とはなにか」
「倫理とはなにか」

実に壮大です。しかし、主観的に取捨選択をし、つまり自分に都合のいい「定義付け」をせざるを得ず、これらを土台に主張をする、

そんな具合かなぁと、思っています。

ヴィトゲンシュタインは、「世界とはなにか」から分解に分解を繰り返して行ったと把握しているんですけども、抽象的表現を用いるのであれば、「世界とはなにか?と記述できるもの」と「記述できないもの」に分解されるわけで、一応、「世界」すべてを記述しつくせる訳です。そんなわけで、抽象的表現を捨て去ることは出来ません。事実とやら、具体的個別的事実、すべての発生を、記述することが出来ないからです。もちろん、把握も出来ません。ありとあらゆる「事実」は色々とカテゴライズされ、箱に入れられ、そこには「抽象的ワッペン」が貼られる訳です。抽象的ワッペンから、具体的個別的事実とやらは、可逆的に、「想像」「類推」可能です。

『主観主義』の章立て  2011/05/20(金) 20:42:49
 ●論理とはなにか?(帰納法と演繹法と論理記号)
●倫理とは何か?
●イデオロギーとはなにか?立場、思惑の違い
●主観と客観とフィードバックと
●相対化とは何か?比較を絡めて
●事実とは何か?
●構造主義と中庸について

順不同です。

なるべく章立てはふやしたくありません。
目次を見た人が、「ゲー、長いよ」と思われるのは避けたいです。
大が小を包み込む、そんな章立てにしたいと思います。

イデオロギーとはなにか?  2011/05/20(金) 20:27:08
 「イデオロギーとはなにか?」も重要な章立てかな、と思います。

イデオロギー演算処理  2011/05/20(金) 20:20:47
 インプットA→「イデオロギー演算」→アウトプットB

イデオロギーが同じならば、つまりインプットAが同じであるならば、アウトプットBもすべて同じになるのでしょうか?私は違うと思っています。

確実に  2011/05/20(金) 00:46:26
 例えば18才とか19才とか、「まわりはほとんどが大学に行って勉強しているから、俺も勉強しよう」という健全な強制力はガシッと働いているはずで、その20才前後の期間を外して、独学という自己管理(まわりは勉強していないけども、俺は勉強しよう)というのは無理がある。というのも、高校時代の勉強内容と大学時代の勉強内容には難度に隔たりがあって、大学での勉強には確実につまずきの連続があるはずだ。やっぱり、「やりたいことをやる、やりたくないことはやらない」これでいいじゃないか。それで本が出版できなかったのならば、原因は明らかに努力から逃げたからで、自分が一番わかっているのだから。
親孝行をしつつ、自分のやりたいことをやる。この折衷はなんとかなる。

ちょっと待ったあ!  2011/05/20(金) 00:33:11
 まずい、まずい、通信大学に2013年から9年連続で勉強しようと紙に書いたけども、絶対に不可能だ。毎日8時間以上、勉強に費やし、大学費用も年に50万円以上も投入するなんて、ありえない。

「少年老い易く、学成り難し」

学者とはやっぱり天才がなるものだから、無謀なチャレンジはやめたほうがいい。無理に大学に行かなくても草学者は名乗れるのだから。それでも、どうしても大学に行きたいのであれば、3年次編入で2〜3年にすべきだ。ただ、現実を想像するに、1日8時間以上、勉強に費やすなんて、絶対に不可能だ。欲は出してはいけないもんだなぁ。怖い、怖い。絶対に神経をすり減らしてしまうはずだ。
多分、「本を出版したい」という気持ちは持っていてもいいんだけども、それと通信大学は別だ。なんとかなるし、なるようにしかならない。大丈夫だ。

う〜ん  2011/05/19(木) 01:59:50
 これはいわゆる、「原理主義」かなぁ。

今気づきました。

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