「事実」について 2011/05/01(日) 06:53:41 |
| どうも、「事実」には二種類以上、区分できる性質があると思います。これは思考法として2元論が流行していることもあると思いますが、つまり、@「能動的事実」とA「受動的事実」です。(しかしながら、「事実」とはよくわかりません。「事実とはなにか」という本があってもいいくらいです。)
@能動的事実とは、それ自体が意味を持っているかのように語りかけてくる、つまり、普遍的事実で、Aとは違い、解釈が分かれにくいもの。しかし、ここが重要なのですが、解釈が絶対に分かれない事実とは、恐らく存在しないと思われます。 例)原発から放射能漏れがおこった
A受動的事実とは、それ自体、意味を持っているのかどうか、観察者にゆだねられる。 例)リンゴが机の上にある このAの場合、リンゴではなくて、例えばシュークリームなどの甘いものだとか、ご飯だとかで、また違ってくるはずです。空腹の人が観察した場合とそうでない人が観察した場合、「事実の意味」が違ってきますし、もしかしたら「事実の存在」すら疑われてしまうかもしれません。しかしながら、「清掃人」という立場、「料理人」という立場だとかからすると、時間の経過とともに、「ご飯が机の上にある」という事実は、意味が変化してきて、「いずれ処分しなければならない」という「能動的事実」に変化してしまうかもしれません。
@、Aの双方に言えることは、物には出発点があるということであり、「事実」にも「元(原、OR源)事実」なる、ある事実の元になる事実があるだろうことです。事実Aがあるとすると、ここから時間が経過することにより事実Aダッシュに変化して、事実度合い、事実の意味、が変ってくるであろう事です。しかしながら、これは、「因果関係」を確定させる作業と似たようなものかもしれません。事実Aダッシュの元事実である事実Aは、一体全体何か?というとき、確定できないかもしれません。少し稚拙に感じられるかもしれませんが、現在までに存在する、様々な「事実」の元事実を、「ビッグバン」に求めて良いものではないという予測があるからです。
@の原発の場合、元事実は何でしょうか?原発を作ったから?核反応が確かめられたから?果たしてどうでしょうか。自然科学者が、自身の実験室内で事実尊重主義を有難がり、拝みあげるのは好きにすればいいのですが、人文・社会科学系の学問においては、もうすでに実証主義的事実尊重主義は時代遅れの古臭い学説に成り果てています。「歴史学」においては、実証主義的歴史学は19世紀に大流行したものであり、その始祖としてのレオポルト・フォン・ランケは、「近代歴史学の父」と言われるくらいです。
皆さんは、「事実」という言葉を、お手軽にお使いですか? |
決めます! 2011/04/29(金) 03:17:22 |
| そう言えば・・・。あれもこれも、はイケナイ。と昔、書いた記憶がありますが・・・。 「英語5分間トレーニング」に集中! 「3ヶ月トピック英会話」と「実践!英語でしゃべらナイト」は、とにかく楽しむことを目的に、テキストは買うけども深追いはしないことだ。 「まずは薄い問題集を繰り返しやることだ」とは、名言ですねぇ(哀 |
学習法 2011/04/28(木) 08:19:03 |
| natsuzohさんの書き込みに少し重なりますが、昨日、英語教師の友人と、私の英語学習について話をしていました。結局のところ、「学習者」は、@人から言われた有効な学習法を素直に信じて学習する人と、A結局は自分の少ない経験を頼りに自分なりの学習法を編み出す、この2パーターンにわかれるかもしれない、ということでした。私の場合は、間違いなくAのパターンだなぁと思います。入り口は@でも、結局、自分であれこれ教材に手を出したりしてしまいます。Aは、急がば回れで、習熟は遅いかもしれませんが定着はしっかりしているかもしれない。しかしですね、ホント自覚があるのですが、「自分の方法は果たして正しいのだろうか?」と不安になってしまって、結局のところ、先生(先輩、先人)にお伺いを立てるハメになってしまう。大げさに言えば、鉄血宰相ビスマルクの言う、「賢者は歴史に学び、愚者は体験に従う」を思い出してしまいます。 とりあえず、2008年度、友人には「基礎英語3」一本で、と言われ、「5分間トレーニング」が開講されてからは、それに移行するように、とのことなのですが、どうしても別のテキストにも触手が伸びてしまいます。なんだろう・・・この欲張り感は。一応、今思うに、賢者は賢者のままですが、愚者はブレイクスルーが望める、ということで、自分の思う通りにやってみようと思います。う〜ん、やっぱり、「5分間トレーニング」に9割方のエネルギーを注いで、完ぺき主義的な気持ちは捨て去るべきかなぁ。理屈的には、A、B、Cと、同じ英語の分野でも3種類を学習するよりは、A、A、Aと重ねてやったほうがいいはずなんですよね。これは確かだなぁ。ちょっと見えてきたかもしれない。 |
おかしい・・・ 2011/04/27(水) 17:15:45 |
| 今、文化相対主義をウィキで調べてみると、学問的には19世紀に始まったように書かれている・・・。高校講座よ・・・。ただし、ウィキには、「文化相対主義的」考えは、古代からあるのはあった、とありますので。しかし、少し、高校講座に対する権威的位置が下がってしまったかも。 |
モンテーニュ 2011/04/27(水) 17:07:15 |
| 高校講座・世界史によると、16世紀のモンテーニュの言葉として、「ヨーロッパの文化が普遍的であると考えるのは問題ではないか?」といった感じで著書『エセー』に書かれたそうです。これを「文化相対主義」と呼ぶらしい。つまり、大航海時代の幕開けにより、アステカ帝国やインカ帝国など、ヨーロッパ文明と比較する対象が増えてきたことによると思われます。 |
おひさま 2011/04/26(火) 13:12:02 |
| 正直、井上真央はキライだったので、連続テレビ小説「おひさま」は、ほとんど見てなかったのですが、偶然、今日の放送を見て、はまってしまいました。とても、いつもの連続テレビ小説っぽくて、いつものテイストでした。明日からは見るぞー! |
しかし 2011/04/22(金) 23:05:27 |
| 『親鸞』は、五木寛之ではなく吉川英治かなと思う。 |
死ぬまでに読んでおきたい本 2011/04/22(金) 22:59:45 |
| 先ほど、今月の『本の雑誌』を読んでいて、「五木寛之の10冊」のコラムで思い出しました。そう言えば、五木寛之の『青春の門』だけは、忘れずに読んでおきたいなと、かなり昔から思っていたなぁと。理由は、『青春の門』を読んだ、って言えば、カッコイイって思ってもらえるかなと思っている。ニーチェに関しては恥ずかしいけども、五木寛之に関しては、ミーハーでも結構、全然恥ずかしくもない。「10冊」を見ると、『青年は荒野をめざす』もあったか。沢木耕太郎の『深夜特急』の先駆となっただろうともある。 大学時代、『生きるヒント』が、かなり売れていました。「苦労もしてないくせにヒントだなんて、フンッ」とミーハー気分に反発していましたが、しかし五木寛之の名前は強烈に残っていた。何故か、オシャレなイメージがあった。椎名誠の『岳物語』を面白いと読んでいた友人がいましたが、それもオシャレに思っていたかなぁ。なんか転じて、曽野綾子の『太郎物語』を読んだことがありますが、これもすこぶる面白かった。 なんでしょうねぇ、大人に憧れる子供が、実際には大人に反発するように?五木寛之に反発していたのかなぁ。結局は、五木寛之に戻っていくんでしょうかねぇ。 |
帰納と演繹 2011/04/18(月) 07:32:14 |
| 稚拙で少々恥ずかしいのですが、考えてみました。
XY平面座標において2点ABが観測された。A(0,0)、B(1,1)である。この2点AとBは、私の言うところの、個別的具体例のことです。この2点から傾向、法則を読み取り、簡便さを求めるという私の価値観、イデオロギー、立場、思惑から帰納すると、Y=Xという一次曲線が求められた。このY=Xという帰納された法則を用いて演繹するということがどういうことかと言えば、3点目の個別的具体例である点C(2,2)が存在するという事が、Y=Xという一次曲線から演繹される。つまり、2点ABの傾向から、3点目の点Cが推測されたことになる。この点Cの存在は鉄壁であるのだけれども、実は、私とは違う価値観、イデオロギー、立場、思惑の観測者からすれば、簡便さではなく、現実に即した、より複雑な捉え方を重視する人の場合、一次ではなく、より高次の、例えば二次曲線Y=Xの二乗が二点ABから帰納されるべきである、という方程式?が求められる場合もある。このY=Xの二乗から演繹される、3個目の個別的具体例である点Cダッシュは(2,2)とは違う、(2,4)だったりする。つまり、Y=Xから演繹された結果である個別的具体例の点Cと、Y=Xの二乗から演繹された結果である個別的具体例の点Cダッシュは、まったく別のもの、異なる存在である訳です。これは、言い換えれば、観測者の価値観、イデオロギー、立場、思惑が違ったことから、帰納の段階からすでに異なる方向に進んでしまっているのです。異なる価値観、イデオロギー、立場、思惑は異なる推論、結論を導き出します。また、最初の段階で、個別的具体例が2点ABだけでなく、点D、点Eと、観測されるものが増えてくると、簡便な一次曲線は帰納できなくなり、現実に即した、より高次の曲線が帰納されてしかるべきことになる可能性が極めて高くなります。しかし、観測点が点D、点Eだけではとどまらなくなり、もっと増えてしまった場合、より高次の曲線が求められるという傾向を裏切り、実は一次曲線を近似すべきである、という帰納がされてしまうこともあるかもしれません。 ところで、帰納、演繹とは、「論理」を形作るものだと思われますが、帰納の場合で言えば、地球上に存在する、観測点すべてを調べた上で帰納する訳ではないので、あくまで推測、推論の域を出ません。肝心カナメの、帰納されて導き出された法則が推論の域を出ていないため、新たな観測点の出現により、その帰納された法則がくつがえされる可能性を残しているため、演繹も同様に、推論の域を出ません。先の、価値観、イデオロギー、立場、思惑などの違いが、帰納する結果に違いをもたらす意味とは、帰納、演繹とは解釈のことであり、そこに主観が食い込む余地を持っているということであり、つまり、論理を形作る帰納、演繹は多分に主観の影響を受けていることから、それらを包含する論理も主観に左右されてしまう、と捉えたくなるのです。しつこいですが、私の性根に言わせれば、冷静な論理とは存在しない、ということです。もしも、自然科学における論理でさえ主観の影響を受けると表現できるのであれば、人文・社会科学分野の諸問題に対する論理に、主観が割り込まない訳はありません。 「冷静な論理」を、人文・社会科学的諸問題に持ち込もうとする派閥は、往々にして、「客観的事実」の存在を主張します。一歩譲って、この大宇宙に、その客観的事実が存在したとしても、肝心の観測者の主観が割り込むことにより、事実が事実たりえません。どうして、「冷静な論理」などと言えるのでしょうか?帰納も、演繹も、推論であり、それらで展開される論理とやらは、解釈を拒むことは決して出来ず、非常にあやふやな存在です。 |
私とか 2011/04/17(日) 20:01:41 |
| 理想としては、まず歴史学である地域のある時代にフォーカスをあて、個別的具体例をかたっぱしから収集しまくる。次に哲学に進み、先ほどの収集した個別的具体例から帰納的@に法則、傾向を導き出すという抽象的思考訓練を飽きても飽きても繰り返す。そしてまた歴史学に戻り、今度は先ほどの、帰納的に導き出された法則、傾向を用いて演繹的@に(多分、帰納法から演繹法に逆に戻ることを「逆演繹」とウィキペディアは表現したのではないかと思う)個別的具体例を抜き出した後、また個別的具体例を収集し続ける。この時、演繹された個別的具体例は、再収集し始めた個別的具体例に影響を与える。影響を受けるということは、収集するべき個別的具体例の性格、性質に変化が見られるということ。そうしていると、それらから@とは別の帰納的Aに法則、傾向が導き出される。となると、先ほどの演繹的@とは別の演繹的Aの個別的具体例が抜き出される。以上がずっと続きます。
先ほど、「帰納と演繹」を調べていたら、ものすごくわかりやすいQ&Aがgooだったかにあったので、私の言葉にして説明しておきます。 「A君とBさんがデートすることになった。一回目、A君は約束の時間に5分遅れてきた。二回目、A君は約束の時間に5分遅れてきた。三回目、A君は約束の時間に5分遅れてきた。この時、Bさんは3つの個別的具体例を収集して、一つの法則、傾向を帰納的に導き出した。つまり、A君は約束の時間に決まって5分遅刻してくる、ということだ。A君は約束の時間に決まって5分遅刻してくる、という法則から、演繹的に、A君は4回目のデートでも5分遅刻してくるという個別的具体例を予測した。」
以上で私の言葉で意訳してみました。次に、演繹的に抜き出した個別的具体例が、再収集し始めた個別的具体例に影響を与える、ということを、A君とBさんの4回目以降のデートで説明してみます。
「4回目のデートの日がやってきた。Bさんは演繹的に、今回もA君は5分遅刻してくるはずだという個別的具体例を予測したので、Bさんは約束の時間より5分遅い、つまり5分遅刻してみた。待つのは嫌だから。そうしたら、見事にA君は、今まさに約束の場所に到着したところだった。」
ここでBさんは、演繹した個別的具体例、「A君は約束に5分遅刻する」を抜き出した。この演繹した結果は、今後のA君の個別的具体例に影響を与えるだろうか?また説明してみます。
「5回目のデートの日、Bさんは当たり前のように、約束の時間に5分遅刻して行った。約束の場所に到着すると、A君はいなかった。おかしいな?と思っていると、A君が、彼女が来た時間からさらに5分遅い時間にやってきた。6回目のデートの日、Bさんは迷ったが、一応、約束の時間に5分遅刻してみた。A君はまたいない。結局、彼女より5分後にやってきたようだ。彼女はA君に、どうして約束の時間から10分遅刻するようになったのか?と聞いてみた。すると、曰く、Bさんが約束の時間より5分遅刻するようになったから時間に余裕があるかなーと思っていたら、5分遅刻する癖が10分遅刻する癖になってしまった、と言った。」
つまり、Bさんが演繹的にA君は5分遅刻すると予測して行動した結果、「A君は5分ではなく10分、約束の時間に遅刻する」という個別的具体例を生んでしまった。演繹した結果、個別的具体例に影響を与えてしまったことになる。7回目のデートの日、Bさんは約束の時間から10分遅刻して行ったのは言うまでもない。二回目の演繹をしたわけだ。A君とBさんは、こんなことを未来永劫、繰り返すのだろうか?それとも、Bさんは、A君の個別的具体例をもっと詳細に見たりして、別の演繹をするのだろうか?
以上を流れ的に書いてみると、
複数の個別的具体例(先ほどは3回のデート)→帰納する→法則@が見つかる(A君は5分遅刻する)→演繹する(Bさんも5分遅刻してくる)→個別的具体例に変化が見られるようになった(A君は5分でなく10分遅刻)→帰納する→法則Aが見つかる(A君は10分遅刻する)→演繹する(Bさんも10分遅刻してくる)→???(この先は、未来永劫、変らないのか、それとも別の帰納、演繹をするのかどうか・・・例えば、約束の時間ではなく約束の場所に規則性を見出すとかして演繹するとか)
以上を歴史学、哲学を用いて、具体的に説明できないのが、今の私の実力です。 |
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