ドラッカーとか 2011/04/17(日) 14:29:36 |
| 先月の中旬あたり、「もしドラ」のアニメのPR番組みたいなのを今日、ようやく見ました。ドラッカーは、活躍のほとんど初期に、当時、大成功していたゼネラルモータース(GM)を1年半ほど、工場見学などをさせてもらった上で徹底的な分析(観察)をされたそうです。これって、まさに、個別的具体例を収集した、ってことではないだろうかと思いました。そして彼は、その具体例を彼の著作として、抽象的に昇華させた、と表現できるのではないでしょうか?まだ『もしドラ』どころかドラッカーの著作も読んだことはありませんが、恐らくは、想像するに、彼の著作の読者は各々が解釈を要求されているのだと思います。彼の抽象的表現を読み手自身の個別的具体例に当てはめるために、つまり、還元作業をしなければならないわけです。ドラッカーは、海に行ってワカメを収集して「ふえるワカメ」を作り、消費者はその「ふえるワカメ」をお水でワカメに戻す作業をする訳です。ドラッカーは成功している企業(GMなど)を観察し、成功法則?を抽象的文言に昇華させる。彼の読者は解釈を通してその抽象的文言から個別的具体的案件に還元する。この時、当たり前の話ですが、ドラッカーの見た個別的具体的案件と彼の読者各々が還元した個別的具体的案件は、ドラッカーの抽象的文言でつながっているものの、同じである必要は全くありません。@個別的具体的案件→観察→抽象的文言→解釈(還元作業)→A個別的具体的案件という一連の流れの中で、@の具体例がAの具体例を生み出した、と捉えたいと思っています。以前、私がJ・S・ミルのウィキペディアで彼の論理学分野における功績を見たときの、「逆演繹」という言葉が、今回の@から帰納的に抽象化された文言を用いてAに適用することが可能であることを表しているのだろうか?と思っています。つまり、@→帰納法→抽象的文言→逆演繹→Aということです。ちょっとここはまだまだ煮詰めないといけません。 ドラッカーは、GMの個別的具体的事例を観察し、分析した結果、抽象的文言を作り出した→抽象的に昇華されたということは、フトコロが広くなった、様々な個別的具体的事例に適応できるようになっている→解釈により、未来永劫、様々な個別的具体的事例にその成功法則は適用され続ける、過激な表現をすれば、ドラッカーはたった一社、GMを観察しただけで、その他多数の企業に適用されうる成功法則を帰納的に抽出した、GMという言ってみれば、ものすごい狭い領域の「傾向」を拡大しまくり、その他大勢の企業に適用するに耐えうる成功法則を作り上げたのではないでしょうか。これを無理やり私に転用するのであれば、私自身のものすごい小さな「経験」から抽象的文言へと昇華させることは可能ではないかと思った次第です。この点で、論語における「一を聞いて十を知る」、もしくは一部分から合理性をりようして全体像を把握しうる「要素還元主義」は、確かに作用している訳です。言ってしまえば、当時のGMは、企業の縮図、組織の縮図、社会の縮図であった、ということでしょうか。縮図を拡大すると、現物が現れる、という寸法です。 |
城めぐり 2011/04/17(日) 07:07:50 |
| 昨日、友達と吉田郡山城に行って、意を決しました。これから、城めぐりを趣味にします。カメラを趣味にしたいなぁと思っていたこと、外出する機会を作ること、一石二鳥です。出来れば、週休を使って一泊をどんどんしていきたいと思います。日本100名城のガイドブックみたいなのがあって、スタンプラリー帳にもなってるようなので、面白そうです。デジタル一眼も買いたいです。 |
感情 2011/04/16(土) 21:09:29 |
| 感情は本当にやっかいだ。でも、以前、「気にしない、気にしない」と念じていたら本当に気にしなくなったことがあったので、何とかなって欲しい。とにかく、悪臭にはフタをするに越したことはない。悪臭が消えることは絶対にないのだけども、悪臭を感知しないで済む方法はあるわけだ。私が感知するかしないか、それだけの話です。 |
そうでないと 2011/04/15(金) 21:58:18 |
| 危険性を認識せず、夢しか見ていない人が被害にあったとしても、可哀想だとはとてもじゃないけど、思ってあげられません。 |
北の国から 2011/04/15(金) 21:41:00 |
| テレビドラマ「北の国から」で、岩城こう一ふんする、かっちょいい兄貴が事故で死んでしまったのはスペシャルだったかどうか忘れてしまいましたが、とにかく印象に残っているのが、「農業ってギャンブルだなぁ」ということです。今回の原発問題で被害をこうむった農家の方々に、今回の被害を予測しておくべきだというのは酷かもしれませんが、しかし、これから農業を志そうとしている人たち、昨今、特に日本産の農産物の輸出が叫ばれる中、農業志願者が増えそうであると感じますが、リスクと言うのか、危険は十二分に認識した上でチャレンジしてもらいたいと思います。正直、もし私のような甘ちゃんが農業を志したとしたら、台風で農産物が全滅するかもしれないとか、その程度の危険性すら認識しないまま、将来の、甘甘な農業ライフを夢見て進出してしまうのではないかと思います。 とにかく、いつの「北の国から」だったか忘れましたが、農業、農家の恐ろしさ、厳しさをビデオでも見て勉強してほしいです。 |
理想と現実 2011/04/10(日) 21:08:51 |
| 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に表現される理想主義は、とてもすごいと思います。でも、その理想主義を現実世界で貫くのは、難しいです。何が妨害しているかと言えば、今わかっているのは「感情」です。気持ち、感情が邪魔していて、例えば、そこには「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入れレズニ」(あらゆる事を自分を勘定に入れずに)とあるのですが、誰がなんと言っても、自分を勘定に入れてしまう感情になっている場合、もうどうしようもありません。でも、なんとかしたい。 感情を打ち消す方法とは、何があるだろうか?と思えば、時間を置くこと、我慢することでしょうか。しかしこれは、自分ひとりの世界にいる時、に通用するだけで、人前にいるときは、もっと難しく、勝手が違ってきます。 前の職場にいた同僚なのですが、何やら自己犠牲の精神を持っているらしい人物ではあったのですが、もう周りから見て、明らかに無理をしているのがわかったのですね。「いや、無理をしてまで譲ってくれなくて良いから・・・」って局面が度々あったわけで、う〜ん、今思い起こせば、自己犠牲の精神がプラスに作用していたとは思えないなぁ、しかし、まあマイナスではないか・・・と、ちょっと微妙な判定です。 「雨ニモマケズ」ですぐに出てくるのが、「欲ハナク 決シテイカラズ イツモシズカニワラッテイル」であって、「欲を放棄する、捨てる」ことが最善の方法でしょうか。最低限のものは仕方ないにしても、欲を捨てる覚悟を持たない限り、永遠に理想主義を貫くことは出来ないし、今思いつきましたが、「充実したい、達成感を得たい、気持ちよくなりたい、つまり良い感情でいたい」と目指している以上、どうのように小細工を効かそうとも、この相反する、二律背反な状態は抜け出せそうにありません。 理想主義を貫きたい為には、欲を捨て、感情を平坦にしないといけない、けども、感情を平坦にすることに価値を見出してはいけない。価値を持つという事は欲を持つということっぽい。しかし、小細工かもしれないが、「欲を持たないことに価値を置く、意義を見出す」ことで、解決できるかもしれない。あー、でも株をやめるのはいやだ・・・。 |
なんでもやってみよう! 2011/04/09(土) 07:15:00 |
| 本屋で、「朝活手帳」なるものを発見したのですが、あれこれ考えて買うのをやめていました。こまごま考えた上でのことなのですが、ここはもう、とにかくやってみることにして、「朝活手帳」を買ってみることにします。朝英語を始めてから、振り返れば、サラリーマンの皆さんと違って、いわゆる本業が始まるなぁ・・・というプレッシャーがないことが確実に作用していると思いますが、とにかく朝はやる気が出ます。朝って特別な時間なんだと感じます。この朝の時間を有効に使いたいと思っています。後は、昼寝するなり、ガンダムするなり、漫画を読むなり、DVDを見るなりすればいいかな、と思っています。やっぱり、朝は、しーんとしているからでしょうかね。昼寝とかで起きた後って、こんなにやる気はでないんですよね。自由にやりたいことだけを、やりたい順番に、とにかく自由にすることは、ダラダラした感触を持ってしまい、とても充実した時間を過ごせた感触を得られません。出来ることは、なんでもやってみたいと思います。 |
そうか! 2011/04/07(木) 09:32:33 |
| ●「具体的事例から抽象的なものへ昇華させる」
これって、まさしく「宗教」なのではないかと、NHKテキストガイドの「宗教の時間」を見ていて気づきました。 宗教の教えから、自己の経験を頼りに、具体的事例を予測、提出する。ただ、私は宗教を作ろうとしている訳ではないしなぁ・・・。 |
目標 2011/04/06(水) 08:08:24 |
| 吉川英治の言葉で、ちょっとうろ覚えですが、「登山の目標とは山の頂上と決まっているが、人生において、得てして面白いのは山の中腹にあったりする」というのがあって、今、また英検準2級を受けたいと思っている自分がどうかなぁと考えています。毎年、英検を受けてやろうとかも思っています。まあ、昔と比べて、随分、前向きになってきたなぁ、プラス思考を素直に受け入れられるようになったなぁ、とびっくりです。ですが、あまり資格にこだわらず、日々、鍛錬を積みさえすれば良い、なんて、弱腰かなぁ。資格の効能とかも、思わないでもないし。とにかく、鍛錬だけは積んでおきたいです。 |
構造主義 2011/04/05(火) 02:16:40 |
| ●今回の一番言いたいこと・・・構造主義的に言って、諸問題に対し、価値観、イデオロギー、立場、思惑の違いにより、「解釈」が分かれてくるのはわかる。今日気づいたのは、価値観、イデオロギー、立場、思惑の違いにより、「論理」も分かれてくるはず。
「構造主義」について、友達の友達が言っていた解釈は、「ある恋人同士や夫婦同士がある恋愛小説を読むとして、彼らが仲の良いとき、喧嘩しているとき、それぞれでその恋愛小説に対する感じ方(解釈)が変ってきて当然だ」というものです。(これを、構造主義による共時的変化と言うとします。「共時」とは、時間を共にする、時間を一定にしたとき、のことです。では、通時的変化はないのかと言えば、あります。通時とは、時間の変遷と共に、あるものがどう変化するか、のことですが、先ほどの例で言えば、「あるカップルの仲がいい状態でも、青年期と老年期では(時間の変遷)、その小説の感じ方が違ってきても自然だ」ということです。共時的変化、通時的変化をもう少し説明すると、共時的変化とは、時間を一定にした、同時代における、世界の各地域ごとの違いとかであり、通時的変化とは、「あるもの」としての日本の、時間の変遷と共に変化すること、です。)すごく合点がいったのですが、小説という文章の長いものではなくて、ワンフレーズの、金言や格言のようなものでさえ、感じ方(解釈)は違ってくるのではないかなと、今は思っています。 ある一つの問題に対して、価値観、イデオロギー、立場、思惑などの違いにより、「主張」が異なってくるのは、何度となく出会うことだろうと思います。その問題に対して、「解釈」が含まれるからだろうと思うからです。一方で、「論理」はどうかと言えば、なにやら鉄壁さをもって、一本道の主張しかないように見えながら、実はそうではないように思います。 社会的な問題が論理記号で表される類のものであれば、鉄壁さをもって、一本道の主張しかないかもしれませんが、見たことはありません。一般的な「論理展開」を持つ主張において、確実に、多かれ少なかれ、「論理的飛躍」が見られると思うのですが、その多少の飛躍において、価値観、イデオロギー、立場、思惑などの違いが割り込んでくる訳で、これが、論理的主張でさえ一本道ではない事を表していると思います。私の性根に言わせれば、「論理的アプローチをしている派閥でさえ、一枚岩ではない」ということです。もしこれが一枚岩だとしたら、確実に、価値観、イデオロギー、立場、思惑などが一致した状態と言えるはずで、「論理的アプローチ」の結果とは思えません。結託した状態のことです。 論理記号で表されるものでさえ、価値観、イデオロギー、立場、思惑などの違いによりちゃぶ台返しを喰らうご時勢ですから、難しいですね。「冷静な論理」というものはこの世にありません。 |
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