倫理と論理 2011/06/02(木) 23:34:13 |
| 倫理に論理的仕組みをもたせると、まどろっこしさを感じる。本来、倫理とは論理を経由して成り立っているものであるが、人間が成長する過程で自然とその論理性を当たり前のものとして処理している感じがします。表現は稚拙なのですが、倫理は出発点では論理として受け取るものの、人間として成長する過程で、その論理性を無視して倫理として処理する、そんな感じでしょうか。だから倫理は、最初は論理として誰かが教育しなくてはならない。そうでなければ、人間として成長する過程で、観察を通して帰納的に論理を発見して倫理をはぐくまなければならない。
●教育された倫理 ●体験により発見した倫理
この二つの違いは、なにかありそうです。 |
倫理とはなにか? 2011/06/02(木) 23:10:45 |
| 「電車の中で、人に席を譲るのは良いことだ」
これは倫理でしょうか?
実は未だに倫理についてよくわかりません。「論理」についても同様ですが、しかしこれは倫理に比べると、なんとなくわかります。で、先の一文ですが、人に席を譲ると言っても、子供に席を譲るのと、高齢者や妊婦に席を譲るのでは意味が違ってくるように思います。これはもしかしたら儒教的な教義からくるのかもしれませんが、そうであるなら、やはり先の一文は倫理なのでしょう。私がここで問題にしたいのは、今回の倫理的文章に、論理的な仕組みを持たせるとどうなるのだろうか?ということです。
「私は今、電車の中で座席に座っている。妊婦さんがホームから入ってきた。混雑する電車の中で妊婦さんを立たせるのは、胎教?によくないのではないか?子供は国の宝だ。安産させてあげなければならない。子供を大事にしない国は滅びる。だから席を譲ってあげよう。」
正直、全然心が温まりません。まあ、私の例文が稚拙なのかもしれませんが、倫理をストレートに受け取るならば心は温まるのだけれども、これに論理的仕組みをもたせると、何を言ってんだコイツ?的な感じを受けます。確かに幼児に倫理を教える場合は、論理的な仕組みをもたせないといけないのかもしれませんが・・・。
倫理はどこからくるのでしょうか?論理が帰納法によりもたらされるのであれば、これは観察という経験からくるものではありますが、書物などから知識として、自身の体験をすっとばして受け取ることが可能です。では倫理は・・・?多分、親、幼稚園の先生、学校の先生、地域のみなさん、などなど、教え方が上手いのかわかりませんが、なんか自然に身に付けるような気がします。が、よくわかりません。 |
ブログについて 2011/06/02(木) 20:18:36 |
| 連絡が遅くなりました。 OCNは先月一杯で解約しましたので、(更新していない)ブログも解約になりましたので、リンクを削除いたします。今までありがとうございました。 |
論理とはなにか? 2011/06/02(木) 07:02:00 |
| 論理とは諸刃の剣だと思います。相手を貶めるために鉄壁の論理とやらを使うのは気持ち良いのかもしれませんが、この時、その論理とやらは、いつの日か自分を苦しめることになる可能性があるはずです。他人に向けた論理とやらが、いつか自分に向かってくるかもしれない危険性を認識した上で使うべきもの、それが論理とやらではないでしょうか? つまり、論理とやらは、自分にとって都合の良いものではない、ということです。自分の思惑、立場を完璧に防護すると思われた論理とやらは、もしも本当に完璧に防護しているのであれば、それは確実に論理とやらではないし、当然、他人に受け入れられるべき客観的な強制力を持つ、論理とやらではないでしょう。 一般的に言われる「論理とやら」とは、あたかも世界共通語のようなもので、客観的であり、普遍的であり、本質的であり、誰に対しても通用するものであろう、そんな神話を指していると思われます。これが実に、実証主義と相性が良い。論理とやら、事実とやらを、「さあ、これはどうですか?」とテーブルにのせさえすれば、世界中の紛争は論理とやらの世界共通語によって解決するとでも思っているお目出度い方々が実証主義者です。 もちろん、気持ちはわかりますし、論理とやらは世界共通語としての一定の役割は担っていると思います。しかし、これが万能だと思っていはいけないはずです。相反する二つの論理展開は存在します。 今の所、私が把握している論理の不得手をカバーするものは、トレードオフを認めること、多数決システムを採用すること、でしょうか。 |
思いやりとはなにか?A 2011/06/01(水) 17:43:05 |
| 思いやりとはなにか?
●倫理的思いやり(主に主観による) ●論理的思いやり(主に客観による) |
訂正 2011/06/01(水) 08:37:09 |
| ほぼ終わりの「機能的論理」は、すべて「帰納的論理」です。
失礼しました。 |
訂正 2011/06/01(水) 08:27:04 |
| 中段の右端の、「逆に演繹的に、」 という部分は無視してください。 続きが思い浮かばなかったのですが、「逆に演繹的に、」だけは残してしまいました。 |
思いやりとはなにか? 2011/06/01(水) 08:25:18 |
| 思いやりとは、主観によるのか、客観によるのか、ということです。
私はAという経験をした。Bだと思った。 ある人がAという経験をしたように見えた。Bだと思うのではないか?@ 聞いてみると、どうやらBだと思ったらしい。 別の人もAを経験したらしく、聞いてみるとBだと思ったようだ。 よって帰納的に、人はAを経験するとBだと思うようだ、ということが論理とやらで導き出せる。A
@の段階は、思いやりは主観によるものだと思います。 Aの段階では、思いやりは客観によるものだと思います。
仮にBが、「悲しい」だとします。
私は主観的に、Aは悲しいと思っていますが、帰納的にAは悲しいことも知っています。帰納的に導き出された、「Aは悲しい」という法則、規則性を用いることによって、「悲しい」と思っている人を見ては、「ああ、Aがあったんだな」と演繹的に類推することが出来るかもしれません。これも極めて論理とやらなのですが、何も悲しいときは決まって、可逆的にAだとは言い切れません。恐らくは、これは自身の経験からもたらされる主観によって、Aではなくても悲しくなることを経験しているし、観察や読書などによる帰納的方法により、論理とやらとして客観的に知っているからです。主観と客観が一致している場合は問題はなさそうです。
私はAは悲しいと思っている。主観 他人はAはなんでもないと思っている。どうやら「Aは悲しくない」というデータを集めていくと、「Aは悲しくない」という客観的論理とやらが帰納的に導かれるようだ。逆に演繹的に、
Aを悲しい、と言う私は、極めて主観的な人間だ、とレッテルを貼られてしまった。
つまりです、Aだから悲しい、と思っている私は、誰からも思いやってもらえないのでした。悲しいと思われるための経験として、Aでは説得力とやらがないらしいのです。可哀想と思うに足る材料ではないそうです。
所がです、「Aは悲しくない」という帰納的論理とやらをしったかぶる人間とやらではなく、「悲しい」という点に着目する人もいます。中には、「Aだけど悲しいよね」と思いやってくれる人もいますし、機能的論理とやらの「Aは悲しくない」という法則、規則が本当にそうなのか?と、Aを精査する人もいます。そうしているうちに、データとりをする地理的領域が広がって、「Aは悲しい」というデータが集まってきて、機能的論理とやらの「Aはどうやら悲しい」とう法則を見つけ出します。この人は、「Aだから悲しい」と言った私に、「Aはどうやら悲しい」という機能的論理とやらが見つかったので、思いやってくれました。つまり、論理的とやらで思いやりを見せてくれました。全然嬉しくもないし、有難くもありません。 |
うれしい 2011/05/29(日) 17:12:39 |
| 重箱はうれしい 美人はうれしい |
本質 2011/05/29(日) 17:08:31 |
| 本質とはなにか?
弁当の本質とは、中身である。@ 女性歌手の本質とは、歌唱力である。A 人間の本質とは、中身である。B |
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