晩年ニートの成り上がり さんの日記

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ブログについて  2011/06/02(木) 20:18:36
 連絡が遅くなりました。
OCNは先月一杯で解約しましたので、(更新していない)ブログも解約になりましたので、リンクを削除いたします。今までありがとうございました。

論理とはなにか?  2011/06/02(木) 07:02:00
 論理とは諸刃の剣だと思います。相手を貶めるために鉄壁の論理とやらを使うのは気持ち良いのかもしれませんが、この時、その論理とやらは、いつの日か自分を苦しめることになる可能性があるはずです。他人に向けた論理とやらが、いつか自分に向かってくるかもしれない危険性を認識した上で使うべきもの、それが論理とやらではないでしょうか?
つまり、論理とやらは、自分にとって都合の良いものではない、ということです。自分の思惑、立場を完璧に防護すると思われた論理とやらは、もしも本当に完璧に防護しているのであれば、それは確実に論理とやらではないし、当然、他人に受け入れられるべき客観的な強制力を持つ、論理とやらではないでしょう。
一般的に言われる「論理とやら」とは、あたかも世界共通語のようなもので、客観的であり、普遍的であり、本質的であり、誰に対しても通用するものであろう、そんな神話を指していると思われます。これが実に、実証主義と相性が良い。論理とやら、事実とやらを、「さあ、これはどうですか?」とテーブルにのせさえすれば、世界中の紛争は論理とやらの世界共通語によって解決するとでも思っているお目出度い方々が実証主義者です。
もちろん、気持ちはわかりますし、論理とやらは世界共通語としての一定の役割は担っていると思います。しかし、これが万能だと思っていはいけないはずです。相反する二つの論理展開は存在します。
今の所、私が把握している論理の不得手をカバーするものは、トレードオフを認めること、多数決システムを採用すること、でしょうか。

思いやりとはなにか?A  2011/06/01(水) 17:43:05
 思いやりとはなにか?

●倫理的思いやり(主に主観による)
●論理的思いやり(主に客観による)

訂正  2011/06/01(水) 08:37:09
 ほぼ終わりの「機能的論理」は、すべて「帰納的論理」です。

失礼しました。

訂正  2011/06/01(水) 08:27:04
 中段の右端の、「逆に演繹的に、」
という部分は無視してください。
続きが思い浮かばなかったのですが、「逆に演繹的に、」だけは残してしまいました。

思いやりとはなにか?  2011/06/01(水) 08:25:18
 思いやりとは、主観によるのか、客観によるのか、ということです。

私はAという経験をした。Bだと思った。
ある人がAという経験をしたように見えた。Bだと思うのではないか?@
聞いてみると、どうやらBだと思ったらしい。
別の人もAを経験したらしく、聞いてみるとBだと思ったようだ。
よって帰納的に、人はAを経験するとBだと思うようだ、ということが論理とやらで導き出せる。A

@の段階は、思いやりは主観によるものだと思います。
Aの段階では、思いやりは客観によるものだと思います。

仮にBが、「悲しい」だとします。

私は主観的に、Aは悲しいと思っていますが、帰納的にAは悲しいことも知っています。帰納的に導き出された、「Aは悲しい」という法則、規則性を用いることによって、「悲しい」と思っている人を見ては、「ああ、Aがあったんだな」と演繹的に類推することが出来るかもしれません。これも極めて論理とやらなのですが、何も悲しいときは決まって、可逆的にAだとは言い切れません。恐らくは、これは自身の経験からもたらされる主観によって、Aではなくても悲しくなることを経験しているし、観察や読書などによる帰納的方法により、論理とやらとして客観的に知っているからです。主観と客観が一致している場合は問題はなさそうです。

私はAは悲しいと思っている。主観
他人はAはなんでもないと思っている。どうやら「Aは悲しくない」というデータを集めていくと、「Aは悲しくない」という客観的論理とやらが帰納的に導かれるようだ。逆に演繹的に、

Aを悲しい、と言う私は、極めて主観的な人間だ、とレッテルを貼られてしまった。

つまりです、Aだから悲しい、と思っている私は、誰からも思いやってもらえないのでした。悲しいと思われるための経験として、Aでは説得力とやらがないらしいのです。可哀想と思うに足る材料ではないそうです。

所がです、「Aは悲しくない」という帰納的論理とやらをしったかぶる人間とやらではなく、「悲しい」という点に着目する人もいます。中には、「Aだけど悲しいよね」と思いやってくれる人もいますし、機能的論理とやらの「Aは悲しくない」という法則、規則が本当にそうなのか?と、Aを精査する人もいます。そうしているうちに、データとりをする地理的領域が広がって、「Aは悲しい」というデータが集まってきて、機能的論理とやらの「Aはどうやら悲しい」とう法則を見つけ出します。この人は、「Aだから悲しい」と言った私に、「Aはどうやら悲しい」という機能的論理とやらが見つかったので、思いやってくれました。つまり、論理的とやらで思いやりを見せてくれました。全然嬉しくもないし、有難くもありません。

うれしい  2011/05/29(日) 17:12:39
 重箱はうれしい
美人はうれしい

本質  2011/05/29(日) 17:08:31
 本質とはなにか?

弁当の本質とは、中身である。@
女性歌手の本質とは、歌唱力である。A
人間の本質とは、中身である。B

弁当と女性歌手と人間  2011/05/29(日) 16:53:31
 弁当とはなにか?
女性歌手とはなにか?
人間とはなにか?

弁当は、本当に中身だけが勝負だろうか?弁当箱も重要ではないか?
女性歌手は、本当に歌唱力だけが勝負だろうか?容姿も重要ではないか?

私は、城山三郎の『梅は匂い 人はこころ』が好きなのですが、その題名は、「梅は匂いよ木立はいらぬ 人は心よ姿はいらぬ」から来ているようで、ここにグッとくるのです。ところが、
人間は、本当に中身だけが勝負だろうか?容姿も重要ではないか?となると、おやおや、話が違ってくる。

結局は総合力でしょうか。玉虫色とは強力な折衷案であり、黄金なる中庸であり、これぞ中道でしょうか。

説得力A  2011/05/29(日) 16:29:11
 証券アナリストAとBがいました。
Aはとても信用・信頼している人
Bはなんか、不誠実な輩に見える人

ある日、AもBもトヨタに関するレポートを持ってきました。二人ともトヨタは買いとの判断だったのですが、Bのことはどうでもいいんだけども、Aと同じ判断をしているのが気になったので、ちょっとBの説得力がいかほどのものか目を通してみました。なるほど、筋は通ってるなぁ。ん?ではAの説得力は?と思って調べてみると、なんとBと同じ論理的仕組みで記述してあるんですね。全く同じと言っていいくらいです。
本来ならBは門前払いであって、Aが買いだと言うから説得力はどうでもいいので買うところだったのだけども、BがAと同じ結論なのはいいとして、説得力までもが同じことが気に入らない。極端に言えば、AとBの人間性は全く違うんだけども、今回のレポートは、同じものがコピーされて2部あるのと全く同じな訳です。AとBは面識もないし、示し合わせた訳でもない。つまり、AがBの、BがAのレポートを手渡してきたとしても、なんの違いもないことになるのです。
確かに、トヨタは買えばいいのかもしれないけども、BがAと同じ結論どころか思考過程まで同じであったことが許せない。Bが信用できないんではなくて、許せないんです。もし、今回はBのレポートしか見ていなかったら、間違いなくトヨタの株は買ってなかったでしょう。無視です。「トヨタは買いだ」という結論までの経路は一つしか存在しない訳ではなく、いくつも経路はあると思われるのに、何故にAはBと同じだったか、いや、何故にBはAと同じ経路を辿れたのか?!
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レポートの受け取り側である私スポルトは、明らかに、「論理を軽んじている」もしくは「人柄を重視する」もしくは「論理よりは人柄を重視する」まあ、なんとなくこんな感じでしょうか。
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今回は、Bのレポートがしゃくに障って腹が立ったので、トヨタ株はスルーすることにしました。Aには、またレポートを持ってきてくださいとお願いはしておくことにします。
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こんな感じでしょうか。もちろん私一人の世界なのですが、いかに論理は頼りなく、人柄は確かなものであるか、が言いたかったのですが、読者の皆様には、私の器の小ささだけが印象に残ったでしょうか?鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の目次が、「論理哲学論考」から「確実性」に向かって時系列に流れているのですが、私の目論む「論理の確実性とは?論理の鉄壁さとは?それは不完全なものなのに詰め将棋と同じだという態度はおかしくないですか?」という主張とは全く別のことが書かれているようで残念です。AとBで論理的記述に違いはないのに、言ってみればその論理展開は私にとって何も訴えかけず、結局のところ、AとBの人柄に興味があったわけで、人柄はビシバシと私に訴えかけるものがあった。

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