おひさま 2011/04/26(火) 13:12:02 |
| 正直、井上真央はキライだったので、連続テレビ小説「おひさま」は、ほとんど見てなかったのですが、偶然、今日の放送を見て、はまってしまいました。とても、いつもの連続テレビ小説っぽくて、いつものテイストでした。明日からは見るぞー! |
しかし 2011/04/22(金) 23:05:27 |
| 『親鸞』は、五木寛之ではなく吉川英治かなと思う。 |
死ぬまでに読んでおきたい本 2011/04/22(金) 22:59:45 |
| 先ほど、今月の『本の雑誌』を読んでいて、「五木寛之の10冊」のコラムで思い出しました。そう言えば、五木寛之の『青春の門』だけは、忘れずに読んでおきたいなと、かなり昔から思っていたなぁと。理由は、『青春の門』を読んだ、って言えば、カッコイイって思ってもらえるかなと思っている。ニーチェに関しては恥ずかしいけども、五木寛之に関しては、ミーハーでも結構、全然恥ずかしくもない。「10冊」を見ると、『青年は荒野をめざす』もあったか。沢木耕太郎の『深夜特急』の先駆となっただろうともある。 大学時代、『生きるヒント』が、かなり売れていました。「苦労もしてないくせにヒントだなんて、フンッ」とミーハー気分に反発していましたが、しかし五木寛之の名前は強烈に残っていた。何故か、オシャレなイメージがあった。椎名誠の『岳物語』を面白いと読んでいた友人がいましたが、それもオシャレに思っていたかなぁ。なんか転じて、曽野綾子の『太郎物語』を読んだことがありますが、これもすこぶる面白かった。 なんでしょうねぇ、大人に憧れる子供が、実際には大人に反発するように?五木寛之に反発していたのかなぁ。結局は、五木寛之に戻っていくんでしょうかねぇ。 |
帰納と演繹 2011/04/18(月) 07:32:14 |
| 稚拙で少々恥ずかしいのですが、考えてみました。
XY平面座標において2点ABが観測された。A(0,0)、B(1,1)である。この2点AとBは、私の言うところの、個別的具体例のことです。この2点から傾向、法則を読み取り、簡便さを求めるという私の価値観、イデオロギー、立場、思惑から帰納すると、Y=Xという一次曲線が求められた。このY=Xという帰納された法則を用いて演繹するということがどういうことかと言えば、3点目の個別的具体例である点C(2,2)が存在するという事が、Y=Xという一次曲線から演繹される。つまり、2点ABの傾向から、3点目の点Cが推測されたことになる。この点Cの存在は鉄壁であるのだけれども、実は、私とは違う価値観、イデオロギー、立場、思惑の観測者からすれば、簡便さではなく、現実に即した、より複雑な捉え方を重視する人の場合、一次ではなく、より高次の、例えば二次曲線Y=Xの二乗が二点ABから帰納されるべきである、という方程式?が求められる場合もある。このY=Xの二乗から演繹される、3個目の個別的具体例である点Cダッシュは(2,2)とは違う、(2,4)だったりする。つまり、Y=Xから演繹された結果である個別的具体例の点Cと、Y=Xの二乗から演繹された結果である個別的具体例の点Cダッシュは、まったく別のもの、異なる存在である訳です。これは、言い換えれば、観測者の価値観、イデオロギー、立場、思惑が違ったことから、帰納の段階からすでに異なる方向に進んでしまっているのです。異なる価値観、イデオロギー、立場、思惑は異なる推論、結論を導き出します。また、最初の段階で、個別的具体例が2点ABだけでなく、点D、点Eと、観測されるものが増えてくると、簡便な一次曲線は帰納できなくなり、現実に即した、より高次の曲線が帰納されてしかるべきことになる可能性が極めて高くなります。しかし、観測点が点D、点Eだけではとどまらなくなり、もっと増えてしまった場合、より高次の曲線が求められるという傾向を裏切り、実は一次曲線を近似すべきである、という帰納がされてしまうこともあるかもしれません。 ところで、帰納、演繹とは、「論理」を形作るものだと思われますが、帰納の場合で言えば、地球上に存在する、観測点すべてを調べた上で帰納する訳ではないので、あくまで推測、推論の域を出ません。肝心カナメの、帰納されて導き出された法則が推論の域を出ていないため、新たな観測点の出現により、その帰納された法則がくつがえされる可能性を残しているため、演繹も同様に、推論の域を出ません。先の、価値観、イデオロギー、立場、思惑などの違いが、帰納する結果に違いをもたらす意味とは、帰納、演繹とは解釈のことであり、そこに主観が食い込む余地を持っているということであり、つまり、論理を形作る帰納、演繹は多分に主観の影響を受けていることから、それらを包含する論理も主観に左右されてしまう、と捉えたくなるのです。しつこいですが、私の性根に言わせれば、冷静な論理とは存在しない、ということです。もしも、自然科学における論理でさえ主観の影響を受けると表現できるのであれば、人文・社会科学分野の諸問題に対する論理に、主観が割り込まない訳はありません。 「冷静な論理」を、人文・社会科学的諸問題に持ち込もうとする派閥は、往々にして、「客観的事実」の存在を主張します。一歩譲って、この大宇宙に、その客観的事実が存在したとしても、肝心の観測者の主観が割り込むことにより、事実が事実たりえません。どうして、「冷静な論理」などと言えるのでしょうか?帰納も、演繹も、推論であり、それらで展開される論理とやらは、解釈を拒むことは決して出来ず、非常にあやふやな存在です。 |
私とか 2011/04/17(日) 20:01:41 |
| 理想としては、まず歴史学である地域のある時代にフォーカスをあて、個別的具体例をかたっぱしから収集しまくる。次に哲学に進み、先ほどの収集した個別的具体例から帰納的@に法則、傾向を導き出すという抽象的思考訓練を飽きても飽きても繰り返す。そしてまた歴史学に戻り、今度は先ほどの、帰納的に導き出された法則、傾向を用いて演繹的@に(多分、帰納法から演繹法に逆に戻ることを「逆演繹」とウィキペディアは表現したのではないかと思う)個別的具体例を抜き出した後、また個別的具体例を収集し続ける。この時、演繹された個別的具体例は、再収集し始めた個別的具体例に影響を与える。影響を受けるということは、収集するべき個別的具体例の性格、性質に変化が見られるということ。そうしていると、それらから@とは別の帰納的Aに法則、傾向が導き出される。となると、先ほどの演繹的@とは別の演繹的Aの個別的具体例が抜き出される。以上がずっと続きます。
先ほど、「帰納と演繹」を調べていたら、ものすごくわかりやすいQ&Aがgooだったかにあったので、私の言葉にして説明しておきます。 「A君とBさんがデートすることになった。一回目、A君は約束の時間に5分遅れてきた。二回目、A君は約束の時間に5分遅れてきた。三回目、A君は約束の時間に5分遅れてきた。この時、Bさんは3つの個別的具体例を収集して、一つの法則、傾向を帰納的に導き出した。つまり、A君は約束の時間に決まって5分遅刻してくる、ということだ。A君は約束の時間に決まって5分遅刻してくる、という法則から、演繹的に、A君は4回目のデートでも5分遅刻してくるという個別的具体例を予測した。」
以上で私の言葉で意訳してみました。次に、演繹的に抜き出した個別的具体例が、再収集し始めた個別的具体例に影響を与える、ということを、A君とBさんの4回目以降のデートで説明してみます。
「4回目のデートの日がやってきた。Bさんは演繹的に、今回もA君は5分遅刻してくるはずだという個別的具体例を予測したので、Bさんは約束の時間より5分遅い、つまり5分遅刻してみた。待つのは嫌だから。そうしたら、見事にA君は、今まさに約束の場所に到着したところだった。」
ここでBさんは、演繹した個別的具体例、「A君は約束に5分遅刻する」を抜き出した。この演繹した結果は、今後のA君の個別的具体例に影響を与えるだろうか?また説明してみます。
「5回目のデートの日、Bさんは当たり前のように、約束の時間に5分遅刻して行った。約束の場所に到着すると、A君はいなかった。おかしいな?と思っていると、A君が、彼女が来た時間からさらに5分遅い時間にやってきた。6回目のデートの日、Bさんは迷ったが、一応、約束の時間に5分遅刻してみた。A君はまたいない。結局、彼女より5分後にやってきたようだ。彼女はA君に、どうして約束の時間から10分遅刻するようになったのか?と聞いてみた。すると、曰く、Bさんが約束の時間より5分遅刻するようになったから時間に余裕があるかなーと思っていたら、5分遅刻する癖が10分遅刻する癖になってしまった、と言った。」
つまり、Bさんが演繹的にA君は5分遅刻すると予測して行動した結果、「A君は5分ではなく10分、約束の時間に遅刻する」という個別的具体例を生んでしまった。演繹した結果、個別的具体例に影響を与えてしまったことになる。7回目のデートの日、Bさんは約束の時間から10分遅刻して行ったのは言うまでもない。二回目の演繹をしたわけだ。A君とBさんは、こんなことを未来永劫、繰り返すのだろうか?それとも、Bさんは、A君の個別的具体例をもっと詳細に見たりして、別の演繹をするのだろうか?
以上を流れ的に書いてみると、
複数の個別的具体例(先ほどは3回のデート)→帰納する→法則@が見つかる(A君は5分遅刻する)→演繹する(Bさんも5分遅刻してくる)→個別的具体例に変化が見られるようになった(A君は5分でなく10分遅刻)→帰納する→法則Aが見つかる(A君は10分遅刻する)→演繹する(Bさんも10分遅刻してくる)→???(この先は、未来永劫、変らないのか、それとも別の帰納、演繹をするのかどうか・・・例えば、約束の時間ではなく約束の場所に規則性を見出すとかして演繹するとか)
以上を歴史学、哲学を用いて、具体的に説明できないのが、今の私の実力です。 |
ドラッカーとか 2011/04/17(日) 14:29:36 |
| 先月の中旬あたり、「もしドラ」のアニメのPR番組みたいなのを今日、ようやく見ました。ドラッカーは、活躍のほとんど初期に、当時、大成功していたゼネラルモータース(GM)を1年半ほど、工場見学などをさせてもらった上で徹底的な分析(観察)をされたそうです。これって、まさに、個別的具体例を収集した、ってことではないだろうかと思いました。そして彼は、その具体例を彼の著作として、抽象的に昇華させた、と表現できるのではないでしょうか?まだ『もしドラ』どころかドラッカーの著作も読んだことはありませんが、恐らくは、想像するに、彼の著作の読者は各々が解釈を要求されているのだと思います。彼の抽象的表現を読み手自身の個別的具体例に当てはめるために、つまり、還元作業をしなければならないわけです。ドラッカーは、海に行ってワカメを収集して「ふえるワカメ」を作り、消費者はその「ふえるワカメ」をお水でワカメに戻す作業をする訳です。ドラッカーは成功している企業(GMなど)を観察し、成功法則?を抽象的文言に昇華させる。彼の読者は解釈を通してその抽象的文言から個別的具体的案件に還元する。この時、当たり前の話ですが、ドラッカーの見た個別的具体的案件と彼の読者各々が還元した個別的具体的案件は、ドラッカーの抽象的文言でつながっているものの、同じである必要は全くありません。@個別的具体的案件→観察→抽象的文言→解釈(還元作業)→A個別的具体的案件という一連の流れの中で、@の具体例がAの具体例を生み出した、と捉えたいと思っています。以前、私がJ・S・ミルのウィキペディアで彼の論理学分野における功績を見たときの、「逆演繹」という言葉が、今回の@から帰納的に抽象化された文言を用いてAに適用することが可能であることを表しているのだろうか?と思っています。つまり、@→帰納法→抽象的文言→逆演繹→Aということです。ちょっとここはまだまだ煮詰めないといけません。 ドラッカーは、GMの個別的具体的事例を観察し、分析した結果、抽象的文言を作り出した→抽象的に昇華されたということは、フトコロが広くなった、様々な個別的具体的事例に適応できるようになっている→解釈により、未来永劫、様々な個別的具体的事例にその成功法則は適用され続ける、過激な表現をすれば、ドラッカーはたった一社、GMを観察しただけで、その他多数の企業に適用されうる成功法則を帰納的に抽出した、GMという言ってみれば、ものすごい狭い領域の「傾向」を拡大しまくり、その他大勢の企業に適用するに耐えうる成功法則を作り上げたのではないでしょうか。これを無理やり私に転用するのであれば、私自身のものすごい小さな「経験」から抽象的文言へと昇華させることは可能ではないかと思った次第です。この点で、論語における「一を聞いて十を知る」、もしくは一部分から合理性をりようして全体像を把握しうる「要素還元主義」は、確かに作用している訳です。言ってしまえば、当時のGMは、企業の縮図、組織の縮図、社会の縮図であった、ということでしょうか。縮図を拡大すると、現物が現れる、という寸法です。 |
城めぐり 2011/04/17(日) 07:07:50 |
| 昨日、友達と吉田郡山城に行って、意を決しました。これから、城めぐりを趣味にします。カメラを趣味にしたいなぁと思っていたこと、外出する機会を作ること、一石二鳥です。出来れば、週休を使って一泊をどんどんしていきたいと思います。日本100名城のガイドブックみたいなのがあって、スタンプラリー帳にもなってるようなので、面白そうです。デジタル一眼も買いたいです。 |
感情 2011/04/16(土) 21:09:29 |
| 感情は本当にやっかいだ。でも、以前、「気にしない、気にしない」と念じていたら本当に気にしなくなったことがあったので、何とかなって欲しい。とにかく、悪臭にはフタをするに越したことはない。悪臭が消えることは絶対にないのだけども、悪臭を感知しないで済む方法はあるわけだ。私が感知するかしないか、それだけの話です。 |
そうでないと 2011/04/15(金) 21:58:18 |
| 危険性を認識せず、夢しか見ていない人が被害にあったとしても、可哀想だとはとてもじゃないけど、思ってあげられません。 |
北の国から 2011/04/15(金) 21:41:00 |
| テレビドラマ「北の国から」で、岩城こう一ふんする、かっちょいい兄貴が事故で死んでしまったのはスペシャルだったかどうか忘れてしまいましたが、とにかく印象に残っているのが、「農業ってギャンブルだなぁ」ということです。今回の原発問題で被害をこうむった農家の方々に、今回の被害を予測しておくべきだというのは酷かもしれませんが、しかし、これから農業を志そうとしている人たち、昨今、特に日本産の農産物の輸出が叫ばれる中、農業志願者が増えそうであると感じますが、リスクと言うのか、危険は十二分に認識した上でチャレンジしてもらいたいと思います。正直、もし私のような甘ちゃんが農業を志したとしたら、台風で農産物が全滅するかもしれないとか、その程度の危険性すら認識しないまま、将来の、甘甘な農業ライフを夢見て進出してしまうのではないかと思います。 とにかく、いつの「北の国から」だったか忘れましたが、農業、農家の恐ろしさ、厳しさをビデオでも見て勉強してほしいです。 |
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