晩年ニートの成り上がり さんの日記

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  2011/03/29(火) 10:04:48
 結局、リバウンド後の高値から結構下がってしまったので、残念ですが、薄利でも欲しいので利確しました。やっぱり、セオリーとして、こういうときの利食いって、早めにしないといけないですね。
今は、現物は性懲りもなくパナソニック、信用をファーストリテイリングにしました。ファーストリテイリングは、障害者雇用に積極的な部類に入ると思うし、その雇用は体裁を取り繕うその他大勢の大企業とは少し違うように感じたために評価しました。もちろん、戻り高値を狙うためでもあります。
思惑通りにいかない。

不思議だ  2011/03/29(火) 08:50:39
 ちょっと思い出したのが、友人から、「教師として、他人の子供だから教育できるんだけども、これが自分の子供だとしたら、とてもじゃないけど教育する自信がない」と聞いたことがあって、別に巷で聞くにも、「仕事だから介護とか看護の仕事とか出来るんであって、これが身内だったとしたら・・・」とか、なんででしょうね。自分のことには頓着しないんだけども、他人の事になると一生懸命になれる、というケースもありそうで、これは不思議だ。私自身の経験としては、ほんと自分にはいい教えを植えつけようとは思わないんですが、他人に対しては、おせっかいというか、老婆心というか、年寄りの冷や水というか、なんか気がまわるようなケースがあるんですね。
義務感とか使命感とかおせっかいとか、思いやりとか。
他人には我慢強く出来たりするのに、親とかには我慢しないとか。他人には頭を下げられるのに、家族には頭を下げないとか。

ただし  2011/03/28(月) 01:47:34
 以前も書きましたが、原爆問題の神経を覆う包皮はとてつもなく分厚く、つまり雑に取り扱ってもよく、この度の原発問題の神経はむき出しでデリケートであり、つまり慎重に取り扱わなければならない、という立場であれば、私とはまるで立場も思惑も違いますので、未来永劫、理解しあえないかもしれませんね。ただし、この度の原発問題の神経を覆う包皮が出来て、それもいつしか分厚くなり、つまり雑に取り扱ってもいい時がくるかもしれないですね、とは思います。

私の意見  2011/03/28(月) 01:35:16
 「比較」が非常に難しいのは、望田先生のいうところの「比較の目的」と「比較レヴェルの確定」が、価値観やイデオロギーや、立場や、思惑などによって、有効か無効かの判断が変ってしまうのではないかという心配です。望田先生も、「恣意的な比較があってはならない」とは警告されておられますが、やっぱり難しい。
隠すのは卑怯なので書きますが、私は「原爆と原発」を比較しています。被爆二世という、立場、思惑によってです。「比較レヴェル」は「放射線の影響」であり、一定の同質性はあるという判断で、「比較の目的」は、放射線の影響という「比較レヴェル」を固定して、原爆の影響と原発の影響を統一しませんか?原発の影響は情で対応するけども、原爆の影響は時間が経過しすぎているので、それは歴史と捉え、つまり情ではなく冷静な論理で対応しましょう、と言うのではなく同様に情で対応しませんか?そうでなければ両方とも、冷静な論理とやらで対応しませんか?つまり、被爆二世、三世に対しては原爆の影響と病気の発生において科学的因果関係は認められないとかどうとかばっさり一刀両断しておきながら、いざ自分に火の粉が降りかかるや、こと原発問題が発生するや、これは出来たてほやほやの問題であり、原発の放射線は、先ほど科学的因果関係という論理で一刀両断しておきながら、今回は情で対応するので、遺伝してしまうかもしれない、心配だ、というのはやめませんか?そうでなければ、被爆二世、三世はピンピンしているので、今回の原発の放射線も遺伝せず、「福島第一原発被曝二世」がもし生まれることがあるのであれば、同様に遺伝しませんよと、ばっさり一刀両断しませんか?情で対応してはいけませんよ、ということです。原爆問題はすでに歴史になっているので、ばっさり論理で切って捨ててよく、今回の原発問題は出来たてほやほやなので、ばっさり論理で切って捨てるのは可哀想だ、情で対応しなければならない、というのはやめませんか?ということです。
肝心かなめの「論理」という科学的因果関係については、当然と言うか理解してもらえると思いますが、私は医者でもなく専門家ではないド素人ですので、全くわかりません。
言ってみれば、科学的因果関係という論理に対する素人の私が、被爆二世という立場、思惑で「原爆と原発」を比較するのは無理があるのかもしれませんが、皆さんにも立場や思惑があるのと同様ですので、ご理解いただけるのではないかと思います。

比較続き  2011/03/28(月) 00:54:56
 「比較の目的に沿って、比較の対象の選定および比較レヴェルの確定が正しく行われねばならない。だが、このような配慮は、自然界における比較においては、まず誤ることはないであろうが、人間の歴史における比較の場合には、こうした基礎的な配慮でも誤りなく行うのは、けっして容易ではない。」

比較  2011/03/28(月) 00:51:07
 まず、私がグッくる歴史学者、望田幸男先生の『ふたつの近代ードイツと日本はどう違うか』1988年より、「比較」についてコンパクトに書かれてあるので紹介してみます。
ちょっと紹介の作法もわからないので難しいのですが、p199−200より「まず比較にあたっての前提についていえば、第一に比較は複数の対象同士を比較するのであるが、その対象は一定の同質性を前提にする。なぜなら当初から異質性が明らかなものを比較しても無意味だからである。比較対象の選択に注意を払う必要がある。第二に、なんのための比較なのか、比較によってなにを明らかにしようとするのか、いわば比較の目的があらかじめ明確にされる必要がある。・・・・・・・・第三に、比較とは部分の比較であることを銘記すべきである。比較対象の全面的比較ーたとえば国全体とか時代全体とかーは成立しえない。なぜなら、そこには異質のレヴェルのものが複合しているからである。・・・・・・・これら三つの前提はいわずもがなのことかもしれないが、今日、流行の比較文化論のなかではこうした基本的心得を無視して、得手勝手な比較がしばしば見られるので、あえて指摘しておきたい。」
次に、p219−220より「比較の目的に沿って、比較対象の選定と比較レヴェルの確定が慎重に行われねばならない。たとえば石炭の硬度を明らかにするために石油を比較対象とすることはナンセンスであろう。なぜなら固体と液体とう本来的に異質なものを比較するのは無意味だからである。・・・・・・だが、この石炭と石油の場合でも、燃料エネルギーという比較レヴェルを設定するならば、その比較は意味を持つつ。・・・・・・・・」

噴飯物  2011/03/27(日) 06:21:34
 都合の良いことには、最大限の、全力を持って情で対応しなければならないと言っておきながら、自分の都合が悪くなると、いや、それは論理で対応しなければならないとか、なんて変わり身が早いんだと思うし、その手のひらを返したような自分の姿勢を鏡で見ることはないのかと不思議に思う。
自分の弱者感応帯のレンジの狭さが悔しいのかどうか知らないが、他人のそのレンジの広さに因縁をつけてみたり、ゲスの勘ぐりをしてみたりして、噴飯物と呼ぶしかない。
いつだったか、普通にテレビで専門家が言っていたのですが、優先順位を決めざるを得ない、つまり支援物資としてのミネラルウォーターが不足している現状、乳児で線引きをしているだけで、物資がふんだんにあるのであれば、18才か20才までの年齢まで引き上げたほうが良いそうなんだけども、知らないってとてつもなく恐ろしいですね。赤ちゃん、赤ちゃんって連呼している連中は、確実に言えることは、赤ちゃんを持つ親か、そうでなければ、2才から5才くらいまでの幼児(もっと言えば、恐らくは中学生にあがるまでの学童)を持たない人間であり、行政が乳児と言っているので分別を働かさなければならないとでも思っているのか。幼児を持つ親がどれだけ微妙な状況にあり、葛藤しているかの想像力も働かない連中なんだろうなと思う。
分別クサイって嫌ですね。あークセークセー。少なくとも歴史学をやると目にするのが、「それはまだ歴史になっていない」って言葉なんですけども、他方で、「それは出来るだけ早く歴史に持ち込みたい」と思っている連中がいるんですね。「それはまだ歴史になっていない」というのは、まだ意味が把握しきれていないないんですけども、後者は手に取る様にわかる。歴史学者でもないのに、誰に頼まれた訳でもないのに、なんか勝手に使命感を感じて気持ちいいのか知らないけど、問題を早く歴史に持ち込みたい連中って、明らかに利害関係の外の人間、部外者なのは間違いないですね。そのクセ、テレビでは、自分の都合のいいことには、最大限の情を発揮している素振りを見せる。分別クセーのか、情が深いと思わせたいのか、ハッキリせーやと思う。
こんな奴らって、明らかに日本人の健常者なんだろうな。

色々思いましたが  2011/03/26(土) 20:13:29
 自分が被爆二世であることで嘆いたり悲しんだり、ましてや泣いたりしたことはありませんが、お昼に厚生障害年金3級をもらっていることを再認識したときは、泣いてしまいました。主治医に、「じゃあ、障害年金を申請しようか」と言われた瞬間から、「厚生」と付いていて3級と裁定された後のいくらかまでの気持ちがパッケージされた感じで、俺もご多分にもれず、こんなことを考えるんだぁ、という経験をしました。正直言って、「俺は違う。倫理観ははるかに高いんだ」と声高に主張している健常者の皆さんには、同じ経験をしてもらいたいし、病人としての経験もどしどし積んでもらいたいと思っています。そして、もらえるものなら、是非とも障害年金をもらってもらいたいと思います。

問題意識  2011/03/26(土) 14:09:09
 我が身に火の粉が降りかかっていないからといって、問題意識を共有できていないものはないか、考え始めました。
私の師匠は、「人間とは矛盾した生き物だ」と言っていたのですが、少し理解できてきたようで、「論理的矛盾」と「倫理的矛盾」があるように今は思っています。しかしながら、「論理」の意味は把握できているのですが、「倫理」が手ごわい。去年の夏、いつもの3人組で京都に一泊したときに、先般の奈良人(国語教師)と話していて、何かのきっかけで「子供って残酷だよなぁ」と思うときがあってね、って話を聞くと、どうも子供がアリを踏んづけて喜んでいるようで注意したらもっと喜んで踏んづけたそうなんですね。で、その時私が「論理的に注意したの?それとも倫理的に?」って訳もわからず聞いたら、彼は少し考えて、「論理と倫理、両方かな?」と言う。内容を聞くと、「●●ちゃん(子供)は人に踏んづけられたらイタイイタイでしょ?アリさんもイタイイタイよね?だから踏んづけるのはやめようね」とか言ったそうです(実はちょっとうろ覚え)。その友達が「論理と倫理両方かな」と言っていたのが影響していると思いますが、倫理も論理的な構造を持っているように考え始めたんですね。「アリさんを踏んづけてはいけない」というのは倫理だと思っているのですが、それを説明しようと思うと、論理的な仕組みを作らないといけない。一見、論理は独立しているけど倫理は論理とくっついている、というのか、それとも論理と倫理を二分することは出来ないのかどうなのか。ああ、わからなくなってきた。
具体的な事例を個別に見ないと、なんとも言えませんね・・・。

正岡子規  2011/03/26(土) 03:39:51
 正岡子規は、俳句だけでなく短歌もやったそうで、それにあやかって私も俳句も知ってみたいなと思いもします。私は、昔のすごい作品を知るだけでいいので、自分で作るのはちょっと無理かなと。で、小林一茶の作品を思い出しまして、これでも十分、なんと、かなりリズミカルではないかと、びっくりします。
「やせがえる 負けるな一茶これにあり」

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