晩年ニートの成り上がり さんの日記

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続き  2011/05/01(日) 13:57:07
 前の例は、事実に価値判断を含んでいるようなので、例としては不適切かもしれません。

所で、「まさにたった今、料理人が運んできた、ホカホカの料理が机の上にある」

という場合、空腹の人Aと満腹のBでは、どうでしょうか?

事実「料理が机の上にある」

この事実は共通認識できるのではないかと、私は思います。(そう思わない人もいるかもしれません)

所で、この事実、無視していたらどうでしょうか?「腐った料理が机の上にある」となりますが、空腹の人Aは、腐るまで無視するでしょうか?また、満腹の人Bは、腐るまでに手を出すでしょうか?

実証主義にズブズブに漬かりきった事実偏重主義者は、どう捉えるのでしょうか?「料理が机の上にある」というのは事実ではない、と言うでしょうか?事実が共通認識できたのであれば、導き出される結果も共有できるはずだと主張するのでしょうか?

「料理が机の上にある」というのは、先の事実分類でいけば、「受動的事実」であり、事実そのものが意味を語りかけてくる種類のものではない、としました。「能動的事実」の場合は、逆に意味を語りかけてくる、としました。この語りかけられる意味とは、思弁するなら、つまり、わざわざ経験する訳でもなく、実験データとして提出された訳でもなく、ほんのちょっと机上の空論するだけでわかりそうなものとして、「意味を共有できない部類の人」もいるかもしれない、そう思える訳です。もしそうでなければ、文明が発達してさえいれば、様々な領域において、共有できる問題は沢山ある、ということになります。これは本当でしょうか?ありえません。様々な領域で意見が対立しているというのに。そしてまた、自分たちは絶対に、天と地がひっくり返ろうとも間違ってはいない、間違っているのは明らかに、あちらさんの方だ、と、お互いに思っているのに。

大言壮語すれば、戦争を起こすカードは現代社会において封印されている中で、政治的意思を相手に押し付ける方法はあるのでしょうか?ありえません。「事実」とやらが腐り果てるのを待つ意外、方法はないでしょう。とにかくは、自分の生きている間に手柄を立てよう、なんて思い上がったことは考えないのが吉です。

少し続き  2011/05/01(日) 07:06:30
 もし、あなたは今、お腹が空いている。

目の前に、とてもおいしそうな食事が置かれている。

「とても価値のある食事が目の前にあるのは事実だろ!」

とあなたは主張するかもしれません。

しかし、世の中はあなたの考えるほど、単純ではありません。

そんなこと、事実ですらない、と捉えられるかもしれません。

近代的・現代的教育を受けている別の観察者からすれば、確かにあなたの主張する事実度合いは理解してもらえるかもしれません。

しかし、それは結局は、自分以外の他の観察者にゆだねられます。

あなたは傲慢にも、強引にも、他の観察者に、自身の「事実観」を押し付けますか?

「事実」について  2011/05/01(日) 06:53:41
 どうも、「事実」には二種類以上、区分できる性質があると思います。これは思考法として2元論が流行していることもあると思いますが、つまり、@「能動的事実」とA「受動的事実」です。(しかしながら、「事実」とはよくわかりません。「事実とはなにか」という本があってもいいくらいです。)

@能動的事実とは、それ自体が意味を持っているかのように語りかけてくる、つまり、普遍的事実で、Aとは違い、解釈が分かれにくいもの。しかし、ここが重要なのですが、解釈が絶対に分かれない事実とは、恐らく存在しないと思われます。
例)原発から放射能漏れがおこった

A受動的事実とは、それ自体、意味を持っているのかどうか、観察者にゆだねられる。
例)リンゴが机の上にある
このAの場合、リンゴではなくて、例えばシュークリームなどの甘いものだとか、ご飯だとかで、また違ってくるはずです。空腹の人が観察した場合とそうでない人が観察した場合、「事実の意味」が違ってきますし、もしかしたら「事実の存在」すら疑われてしまうかもしれません。しかしながら、「清掃人」という立場、「料理人」という立場だとかからすると、時間の経過とともに、「ご飯が机の上にある」という事実は、意味が変化してきて、「いずれ処分しなければならない」という「能動的事実」に変化してしまうかもしれません。

@、Aの双方に言えることは、物には出発点があるということであり、「事実」にも「元(原、OR源)事実」なる、ある事実の元になる事実があるだろうことです。事実Aがあるとすると、ここから時間が経過することにより事実Aダッシュに変化して、事実度合い、事実の意味、が変ってくるであろう事です。しかしながら、これは、「因果関係」を確定させる作業と似たようなものかもしれません。事実Aダッシュの元事実である事実Aは、一体全体何か?というとき、確定できないかもしれません。少し稚拙に感じられるかもしれませんが、現在までに存在する、様々な「事実」の元事実を、「ビッグバン」に求めて良いものではないという予測があるからです。

@の原発の場合、元事実は何でしょうか?原発を作ったから?核反応が確かめられたから?果たしてどうでしょうか。自然科学者が、自身の実験室内で事実尊重主義を有難がり、拝みあげるのは好きにすればいいのですが、人文・社会科学系の学問においては、もうすでに実証主義的事実尊重主義は時代遅れの古臭い学説に成り果てています。「歴史学」においては、実証主義的歴史学は19世紀に大流行したものであり、その始祖としてのレオポルト・フォン・ランケは、「近代歴史学の父」と言われるくらいです。

皆さんは、「事実」という言葉を、お手軽にお使いですか?

決めます!  2011/04/29(金) 03:17:22
 そう言えば・・・。あれもこれも、はイケナイ。と昔、書いた記憶がありますが・・・。
「英語5分間トレーニング」に集中!
「3ヶ月トピック英会話」と「実践!英語でしゃべらナイト」は、とにかく楽しむことを目的に、テキストは買うけども深追いはしないことだ。
「まずは薄い問題集を繰り返しやることだ」とは、名言ですねぇ(哀

学習法  2011/04/28(木) 08:19:03
 natsuzohさんの書き込みに少し重なりますが、昨日、英語教師の友人と、私の英語学習について話をしていました。結局のところ、「学習者」は、@人から言われた有効な学習法を素直に信じて学習する人と、A結局は自分の少ない経験を頼りに自分なりの学習法を編み出す、この2パーターンにわかれるかもしれない、ということでした。私の場合は、間違いなくAのパターンだなぁと思います。入り口は@でも、結局、自分であれこれ教材に手を出したりしてしまいます。Aは、急がば回れで、習熟は遅いかもしれませんが定着はしっかりしているかもしれない。しかしですね、ホント自覚があるのですが、「自分の方法は果たして正しいのだろうか?」と不安になってしまって、結局のところ、先生(先輩、先人)にお伺いを立てるハメになってしまう。大げさに言えば、鉄血宰相ビスマルクの言う、「賢者は歴史に学び、愚者は体験に従う」を思い出してしまいます。
とりあえず、2008年度、友人には「基礎英語3」一本で、と言われ、「5分間トレーニング」が開講されてからは、それに移行するように、とのことなのですが、どうしても別のテキストにも触手が伸びてしまいます。なんだろう・・・この欲張り感は。一応、今思うに、賢者は賢者のままですが、愚者はブレイクスルーが望める、ということで、自分の思う通りにやってみようと思います。う〜ん、やっぱり、「5分間トレーニング」に9割方のエネルギーを注いで、完ぺき主義的な気持ちは捨て去るべきかなぁ。理屈的には、A、B、Cと、同じ英語の分野でも3種類を学習するよりは、A、A、Aと重ねてやったほうがいいはずなんですよね。これは確かだなぁ。ちょっと見えてきたかもしれない。

おかしい・・・  2011/04/27(水) 17:15:45
 今、文化相対主義をウィキで調べてみると、学問的には19世紀に始まったように書かれている・・・。高校講座よ・・・。ただし、ウィキには、「文化相対主義的」考えは、古代からあるのはあった、とありますので。しかし、少し、高校講座に対する権威的位置が下がってしまったかも。

モンテーニュ  2011/04/27(水) 17:07:15
 高校講座・世界史によると、16世紀のモンテーニュの言葉として、「ヨーロッパの文化が普遍的であると考えるのは問題ではないか?」といった感じで著書『エセー』に書かれたそうです。これを「文化相対主義」と呼ぶらしい。つまり、大航海時代の幕開けにより、アステカ帝国やインカ帝国など、ヨーロッパ文明と比較する対象が増えてきたことによると思われます。

おひさま  2011/04/26(火) 13:12:02
 正直、井上真央はキライだったので、連続テレビ小説「おひさま」は、ほとんど見てなかったのですが、偶然、今日の放送を見て、はまってしまいました。とても、いつもの連続テレビ小説っぽくて、いつものテイストでした。明日からは見るぞー!

しかし  2011/04/22(金) 23:05:27
 『親鸞』は、五木寛之ではなく吉川英治かなと思う。

死ぬまでに読んでおきたい本  2011/04/22(金) 22:59:45
 先ほど、今月の『本の雑誌』を読んでいて、「五木寛之の10冊」のコラムで思い出しました。そう言えば、五木寛之の『青春の門』だけは、忘れずに読んでおきたいなと、かなり昔から思っていたなぁと。理由は、『青春の門』を読んだ、って言えば、カッコイイって思ってもらえるかなと思っている。ニーチェに関しては恥ずかしいけども、五木寛之に関しては、ミーハーでも結構、全然恥ずかしくもない。「10冊」を見ると、『青年は荒野をめざす』もあったか。沢木耕太郎の『深夜特急』の先駆となっただろうともある。
大学時代、『生きるヒント』が、かなり売れていました。「苦労もしてないくせにヒントだなんて、フンッ」とミーハー気分に反発していましたが、しかし五木寛之の名前は強烈に残っていた。何故か、オシャレなイメージがあった。椎名誠の『岳物語』を面白いと読んでいた友人がいましたが、それもオシャレに思っていたかなぁ。なんか転じて、曽野綾子の『太郎物語』を読んだことがありますが、これもすこぶる面白かった。
なんでしょうねぇ、大人に憧れる子供が、実際には大人に反発するように?五木寛之に反発していたのかなぁ。結局は、五木寛之に戻っていくんでしょうかねぇ。

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