季節 さんの日記

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(無題)  2008/04/30(水) 21:38:49
  田中森一氏が再逮捕された。週刊誌によれば、田中氏は、相手方の脱税をばれないようにしてやったのだから9000万円はその報酬だと言っているらしい。確かに「被害者」も相当うさんくさい人物だが、田中はいわばその足元を見たというわけである。しかし何でこの人こんなにお金に困ってるんだろう?やっぱりバブルに踊った人は抜けるに抜けられないのだろうか。その点相場は抜けられるだけましと言うべきか。またぞろワンルームマンションの営業がうるさいが、ローン組んでワンルームの区分所有権なんぞはじめたら、それこそ悲惨なことになる。これは、ぬけられません。

(無題)  2008/04/23(水) 20:48:17
  アメリカの大統領選はマケインの勝利が見えてきた様子である。保守系マスコミのFOXテレビがオバマの肩を露骨に持っていると言うことからしても、ほぼ間違いがない。白人対黒人の争いになれば、少数派が勝つ可能性はほとんどないと思われる。白人にとっては黒人大統領になったときどんな復讐が待っているか、内心気が気でないからだ。かくてブッシュは安心して大統領の任を降りられるであろう。後は早く死ぬだけである。なぜなら次の次の大統領がイラク戦争問題を持ち出さないとも限らないからである。

ははは  2008/04/22(火) 19:46:51
 三日月さんのかきこみにちょっとワロタ

(無題)  2008/04/21(月) 21:06:25
  瓢箪から駒で、白川方明氏が日銀総裁に任命されたが、書店ではこの人の著述になる『現代の金融政策』なる分厚い本が出版されている。本当にこの人は学者肌の人らしい。よく、日本は中央銀行総裁さえ空席で世界に恥をさらしているなどという人があるが、世界標準で恥なのは、中銀総裁ともあろうひとが、低学位であることである。東大学士など、鼻でわらわれて終わりである。シカゴ大学MAでも全然物足りない。白川氏はこんな立派な研究書をものしたのであるから、これで博士号でもとった方がよいと思う。

(無題)  2008/04/16(水) 22:45:20
  すべての人類は元々狩猟採集民であったから、ある時期、農耕を身につけたことになる。歴史上、独自に農耕を発展させた文明はいくつかあるが、いずれも1000年単位の気の遠くなるような長い年月を経て、ゆっくりと発展させたのである。それ以外は、いずれもよその文明に学んで農耕を取り入れたか、あるいは農耕民族が侵入してきたのか、いずれかである。かつて、歴史の「内的発展」を重視する立場では、もっぱら前者が一般的であるように論じられ、日本においても、縄文人が、主体的に稲作を受け入れたという想定が好まれた。しかし冷静に考えてみて、狩猟採集民が、そんなに積極的に農耕を受け入れるであろうか。近代の例を挙げてみても、アイヌ人や、オーストラリアンアボリジニは、近代国家の威信をかけて、よき農民、よき市民たるべく強力に教育されたが、彼ら(ことに純血のそれ)が、農民や市民としてよく適応したかというと、とうていそんなことはいえない。まして前近代における狩猟採集から農耕への急激な転換は、だいたいにおいて民族の「入れ替え」を想定する方が自然ではないかと思われる。
 農耕民族は、ある意味ガン細胞のようなものである。我々の体の中にも、1個や2個のガン細胞はつねにできているが、免疫の力によって排除されている。しかし何かのきっかけで免疫の力が弱くなったとき、ガン細胞は10個となり100個となり、やがて宿主を滅ぼしてしまう。狩猟採集社会に農耕民が侵入していくときも、こんなようなものではないか。農耕民は一人二人とそのような社会に迷い込んでも、たちまちのうちに排除されるが、たまたま農耕民の武器が優れていたり、まとまった数の移民があれば、増加率に勝る農耕民が圧倒してしまうのである。11,12世紀の沖縄も、そのようなかんじで入れ替えが起きたのであろう。そして彼らは台湾にも入植しようとしたのであろうが、やはりその地では先住民の数が圧倒的に多いために、蹴散らされてしまったのであろう。

(無題)  2008/04/15(火) 22:28:52
  沖縄に日本語がもたらされたのは、かつては奈良時代といわれていたが、最近では11,12世紀、農耕とともにもたらされたというのが有力らしい。発掘された人骨を見ても、それ以前と以後でははっきり異なり、農耕が始まってからの沖縄人は中世の本土人に似るという。となると、平安時代後期に、おそらく南九州あたりから南島に、勇敢に移民した人たちが居ると言うことである。しかし歴史にはほとんど記録には残らない。だが昔から、これらの島々には平家の落人伝説が分布し、また沖縄の王家は鎮西八郎為朝の子孫であると伝えてきた。もちろんこれらは眉唾だが、時期的に一致するのがおもしろい。その割に沖縄語と日本語が大きく隔たっているのは、元々南九州の日本語自体が中央のそれと隔たっていたためであろう。おそらく隼人の言葉ではなかろうか。隼人の言葉は、一説によるとインドネシア系などと言うが、根拠があるわけではない。
 11,12世紀に日本系の人たちが移民する前は、先島・八重山諸島は、沖縄本島とは違う文化だったという。倭人系がやってきて、初めて沖縄に包摂されたようである。台湾まで到達しなかったのだろうか。台湾が遅くまで開けなかったのは、ちょっと不思議である。

(無題)  2008/04/13(日) 19:26:11
  『DNAでたどる日本人10万年の旅』を書いた崎谷満という人の肩書きはCCC研究所所長というものである。大学にいる人ではないらしい。とはいえ、内容的にきわものというわけでもない。分子生物学を中心においた、ヒト集団の文化、言語の多様性の科学的解明にいそしんでいるとのことである。確かに内容も、日本語の起源などにわたってふれている。遺伝子と言語系統は必ずしも一致するものではないが、確かに解明のよすがにはなりうるであろう。
 本の中では、弥生系稲作民は江南からきたと思われ、元々オーストロネシア系言語を使っていたと見られるので、日本語と系統が違うから、この島に来るに従い地元縄文系の言語を使うようになったのであろうとし、すなわち日本語の元は縄文語であろうと推定している。
 日本語の起源は定説はないし、安本美典氏など日本語を縄文時代から連続した言語とする見解もないわけではないが、この説を主唱する人がふれたがらない事実として、古く新村出が大正時代に指摘して、韓国の李基文ソウル大教授が展開した、いわゆる「高句麗語」の問題がある。高句麗領内の地名から復元されてる限りの高句麗語の語彙は、およそ半分が日本語に似ており、おそらく日本語と同系の言語と思われる。これが高句麗の言語でなかったとしても、かつて半島の中北部に日本語とよく似た言語の存在が推測され、とりもなおさず日本語の半島由来を推察させる。
 一口に弥生系稲作民と言うが、江南から直接北九州に到達した人間もおろうが、まず半島南部に到着し、そこで日本語系の言語を身につけ、しかるのち列島に渡った人もあるのではないか。日本語は、やはりそれらの人が半島からもたらして、縄文人の言語と入れ替わったと考える方が自然であろう。邪馬台国時代には、すでに日本語で解釈できる言葉が多いようである。

(無題)  2008/04/12(土) 11:54:53
  秋山さんご婚約おめでとう御座います。相場で一時撤退された頃から、予感してました(笑)

今日の天気図  2008/04/08(火) 22:10:18
  今日の天気図をみてみると、東京のあたりに、まるで台風のような丸い低気圧があるので驚いた。普通温帯低気圧は横にひしゃげているのだが、こんな形のが南海上にあれば、台風並みに荒れ狂う天気になるのもわかるような気がする。気象の解析技術の低かった、明治や大正時代には、季節はずれの「台風」が何個か記録されているが、その実態は今日のような低気圧だったのかもしれない。

(無題)  2008/04/05(土) 23:30:31
  先崎満『DNAでたどる日本人10万年の旅』を読む。近年はDNAを調べる技術が進歩して、この種の起源論も飛躍的に進歩した。つい20年ほど前は東大の長谷部言人=鈴木尚ラインの、日本人は縄文から弥生にかけてほとんど外来民族の影響をうけて「いない」という説が自然人類学では通説に近かったのだから、様変わりである。こんな事を書くと驚かれるかもしれないが、実際、戦後から20年くらい前までは、一般の素人が「弥生系稲作民」が渡来して縄文人をおいやってこの国を作ったんじゃないの?などと感想を述べれば、「学問とは無縁のアマチュアが勝手なことを言っている」などと考古学会ではたちまち嘲笑の対象となったものである。ところが、同じ東大の埴原和朗が、弥生時代に大量に半島から渡来したんじゃないかという説を出した頃から、再び風向きが変わり、今は遺伝学の点からも「日本人二重基層説」がほぼ確からしいところまできている。
 日本の考古学界というのはそのときそのときの「権威」に非常に弱いところがある。学界とアマチュアで意見が違うものの代表が「邪馬台国論争」であるが、まあこれは同時代の文字史料である3世紀の紀年鏡と年輪年代学という強力な支持材料のある大和説が正しいというアカデミズムの説が正しいと思うけれども、たとえば騎馬民族説に感情的な反発をする佐原真のような一部の考古学者には、何だかなあと言う気がする。高度に文献史学的、あるいは系譜学的といってもいいこの説に、佐原真がやっているようなたこつぼ考古学でまともな反論などできるはずがないのに。
 この場合の権威とは何か。それはほかでもない、歴史の原動力は、「土台の変化」、すなわち内部的な要因によるものであり、研究に当たってはそれを法則的に認識しなくてははならないという、古いタイプの左翼史観である。こういう史観に染まっていると、変化の要因を、外部の民族の流入や征服によって説明することを非常に嫌うのである。長谷部=鈴木の日本人論が簡単に受け入れられたことや、騎馬民族説に感情的な反発があるのはそのせいである。騎馬民族説が正しいとは私も必ずしも思わないけれども、、いい加減21世紀にもなるのだから、日本の考古学界もこのような詰まらぬ偏見からは離れてもらいたいものである。

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