季節 さんの日記

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(無題)  2007/11/09(金) 20:33:52
  日本人は世界の常識に比べ、信念や自分の考えをあからさまにいわないのが美徳とされるが、ポリシーのプロたるべき政治家や政党ですら信条が感じられないのは困ったことだ。具体的には民主党のいい加減さは目に余る。だから自民党になめられて、大連立など持ちかけられるのだろう。最近の民主党の政策で実にくだらないと思うのは、例の「農家の戸別補償」である。今日参議院を通過して衆議院に送られるそうである。当然否決されるであろう。前回の参院選挙の大勝に、この政策がいくらか寄与したことまでは否定しないが、いろいろなアンケート調査を見る限り、そもそも民主党のコアな支持者が本当にこんな政策に共感を覚えるとは思えないし、「戸別補償」なんぞアテにして民主党に入れた人は、この次の選挙にはきっとまた自民に入れるのである。
 私は、郵政改革が小泉「自民党総裁」によって成し遂げられねばならなかったのは、かなりの程度、民主党の責任であったと考える。正直、民主党は小泉の郵政改革に賛成すべきではなかったか?もし民主党が小泉の郵政改革に賛成すれば、おそらく小泉政権は自民党内部の権力闘争によって引きずり下ろされたであろう。周知の如く、多くの自民党議員は、自らの支持基盤を崩しかねない郵政改革に、内心反対であったからである。かくて守旧派の自民、改革の民主という風にきれいに色分けがされて、ポリシーにもとづく正しい政党政治が実現したであろう。農政においても、せっかく政府自民は、より自由主義的な農政を進めるポーズなのだから、民主はこれを支持するか、あるいはいっそうラディカルな政策を提案すべきである。すると自民は自然に内部の政治力学によって、バラマキ派が勝利を収めることになろう。すなわち正常な政党政治が実現される(笑) 要するに民主は自民を「保守に追いやる」知恵が必要なのである。
 しかるに現実の民主は鵺のような右往左往を続けるばかりで、信条もなければ論理的思考にも欠如しているように思われる。アメリカの民主共和の方がもっと色分けは鮮やかだし、戦前の政友会と民政党ですらもうちょっとましだったと思う。しかし議院内閣制の下で政党政治が機能不全であるということは、大統領制下におけるよりも一層、真に必要な政策が行われないことに直結しかねないのであり、まことに寒心に堪えない。

アルプス一万尺  2007/11/08(木) 21:34:13
  新聞に、アルプス一万尺の「こやり」って何?、という小学生の質問が載っていた。私が小学校低学年の頃、音楽の教科書には「アルプス一万尺こやりの上で」「お花畑で昼寝をすれば」「一万尺にテントを張れば」の3番構成で、私は当然スイスのアルプスを思い描いていた。(その時分アルプス少女ハイジというテレビ番組があった)数年後、「槍や穂高は隠れて見えぬ」だの「まめであいましょまた来年も」などという歌詞にふれて、これが日本アルプスで、「こやり」は槍ヶ岳近くの小ピークらしいことを知ったわけである。それでそのことを母にいったら、「一万尺は日本アルプスをたたえる決まり文句だから当たり前」と切り返されてしまった。母は学生時代登山をしていたから、そんなのは自明だったのである。
 さて、この歌は昔から日本で親しまれているように思うが、新聞を読めば、「アルプス一万尺」で知られるようになったのは1960年代らしい。つまり母にとってはまさに高校か大学の頃の歌で、決して「子供の頃から親しんだ」歌ではなかったのである。こんなところにも意外に時代差を感じてしまう。そういえばこのころは「山男の歌」みたいな歌もあって、まあこの時代まで登山といえば「学生さん」の代表的な趣味だったのである。アルプス一万尺もそういった登山仲間の間で作詞者不明として歌い続けられたものと推察される。しかし最近は登山を趣味とする若い人はめっきり少なくなったような気がする。なんか「ばっちい」感じがするからかしらん。
 ばっちいといえば、この歌の全29番の歌詞の中に「キジを撃つ」「花を摘む」とあるのは、野グソのことだそうです。嗚呼。

(無題)  2007/11/01(木) 20:44:32
  雑誌サピオに、世界のブログが何語で発信されているかの統計がでていて、それによると、およそ3分の1が日本語で、英語と並びトップを争っているという。つまり日本人がそれだけ日記好きの国民ということであろう。誠に日記文学の国である。そういえば、中公新書から、枢密院議長の倉富勇三郎の日記を紹介した、佐野眞一の本が出た。正直、これを読むのはかなり退屈だったろうなと思うが・・

10月の成績
商品-195,960 為替は決済せず。

儲からんな。

(無題)  2007/10/31(水) 23:26:40
  PHP新書から高田智也『プロ相場師の思考術』という本が出た。内容を詳しく読んだわけではないが、その中に、いわゆる相場師の会合に出てみたら、ほとんどが印税で稼いでいる人だったという話があった。本を世に出している人のほとんどが実際には相場で食っているわけではないと著者はいいたかったのだが、私は、たぶんこの人たちも、「一時は」相場で食っていけたのだと思う。しかしある時期から勝てなくなり、仕方なく印税や、コンサルタントで稼いでいるのであろう。従って別段彼らが嘘をついているわけではあるまい。十何年も相場で勝てた人が、ある時突然勝てなくなるところに、相場師稼業の真の怖さがある。

(無題)  2007/10/30(火) 21:27:23
  青森県黒石市が、竹下政権がばらまいたふるさと創生基金の1億円で作った純金こけしを売りに出すらしい。ようやく利益が出たのであろう。まあ、正解ではある。しかし今買う人は、今度の売り時は果たしていつ頃になるのだろうか。それともどこか旅館がやったように、これで黄金風呂でも作って客寄せに使うのだろうか。金は利子を生まないから、有効活用のためには後者の方法でも考えるのが方が賢明だな。

(無題)  2007/10/29(月) 22:24:04
  三浦展氏といえば、『下流社会』で話題になった人だが、なかなか造語能力があるらしく、「ファスト風土」という言葉も生み出している。地方が疲弊してサラ金の看板とショッピングセンターばかりが展開する飢餓(ファスト)風土になりつつあると警鐘をならしている。しかしだからといって旧態依然としたばらまきを続けるわけにはいくまいし、小生は鈍感なせいかファスト風土が利便性追求の結果ならそれもまたやむを得ないような気がする。世の中には「工場萌え」という風に工業団地の無機質な造形に美しさを感じる人もいるくらいだから、SCやホームセンターが原野に出現する光景もまたシュールでいいという人もあろう。地方の振興は必要であるがそれは経済的な合理性に基づかねばならない。人口が減れば耕地の集積を促して競争力のある農家が復活する可能性もあると思う。

(無題)  2007/10/27(土) 21:22:54
  掲示板でオプションが話題になっているが、7年くらい前に、私も一度だけグローバリーのホームトレードを通じて東京穀物商品取引所のオプションをやったことがある。大豆のストラングルの買いであった。もちろん全く流動性がなく、自分の建玉だけが1枚づつ東穀のHPにさらされていたのを思い出す。つまらないので成り行きで反対売買したら、思いっきり不利な値段で転売されてしまった。グロにえさをやったようなものである。馬鹿なことをした。難しく考えず、宝くじのようなものだと思えば、それはそれで楽しめるのかもしれないが、ふつうの先物でも時たま勘違いしてしまうくらいだから、オプションもうっかりミスのリスクというのも考えに入れなければなるまい。ゴールドマンサックスのeワラントなんていうものあるが、これは流動性があるんだろうか。

(無題)  2007/10/26(金) 20:53:04
  銀行で、グローバルソブリンオープンのパンフレットをもらった。主要先進国のソブリン債(国債など)に投資するもので、その区利回りが結構人気を集めているらしい。銀行が販売を手がけるくらいだから、安全性の高い手堅い商品であるという認識なのであろう。しかしよく考えてみると、基本的なコンセプトはFXのスワップ狙いと大きな違いはないように感じられる。FXのスワップ狙いが理論的に実質金利以上に儲かることはないというのが、経済学者の議論であるが、その根拠は、利回りが高ければその分その通貨は安くなるはずで、世界の実質金利は同じになるはずだということである。しかしそうすると同じ論理を用いて、外国のソブリン債の利回りが高いのは、単にその通貨の目減りを織り込んでいるに過ぎないということになり、ソブリンファンドが日本の国債に投資するより高い収益を上げることはないように思われる。実際はどうかというと、ファンドマネージャーの腕がいいのかかどうかは知らないが、日本国債よりは高い利回りを誇っているようだ。はたしてFXも人々の腕次第、といえるかどうか。

(無題)  2007/10/25(木) 20:42:54
  昨日、全国学力調査の結果が公表された。「知識の活用 苦手」などと書いてあったが、何を基準に得意なのか苦手なのか判然とせず、単に粗点が取れてないことを以てそう判断するのは、明らかにナンセンスであろう。こんなおかしな解釈をマスコミが疑いもせずに垂れ流すのは、日本の統計・論理教育の欠陥と感じられた。私は以前から、優秀神話のある日本人のオトナの知的能力が、欧米人に比べ、本当は決して自慢できるレベルではないのではないかと疑っている。そんなことより、思ったほど地域差がはっきりしないことと、「ゆとり教育による学力崩壊」が必ずしも正しくないことが印象に残った。
 いわゆる「ゆとり教育による学力崩壊」は、実際のところ、いくつかの問題がごっちゃになっていると思う。大学の先生などが、近頃の学生の質が落ちてきたと感じるのは、実際のところ、少子化によってどの大学も入学が容易になり、以前より「地頭」の低い層が入ってくからではなかろうか。実際、1990年ごろに比べ18歳人口は60万人ほども減っている。学力の上位2割層は1990年も2007年もほとんど同じ熱意で大学進学を目指しているだろうから、これは事実上、1990年の東大の定員が5000人になったのと同じである。同様のことは大方の大学でいえるのだから、大学生のレベルが下がったように感じられるのは当然であろう。
 しかしそのことと、学力の絶対水準が下がったかどうかとは、根本的に別問題である。まして数十年前の生徒より、今の生徒のほうが「出来る」であろう事は容易に予想される。今回の調査結果も軒並みそうなっている。電車に乗ると、「日能研」の中学入試問題を紹介した宣伝がいたるところで見られるが、大した名門中学の問題でもないのに、率直に言ってわが身を振り返れば、自分が小学校6年のときにこのような問題が出来たとはとても思えない。
 私立中学の話で思い出したが、いまや東京では20%程度が私立に進学する。千代田区では50%程度が進学する。だから今回の結果を注意深く観察すれば、東京の成績が、小学生より中学生で全国レベルで相対的に低くなっているのがわかる。ざっと影響は2、3点はある。だが新聞ではなぜかこういう事実も指摘していない。だれでもわかってるくせに。例によって心の琴線に触れる話題は注意深く避けて議論にふたをするというのが、日本人の美徳なのである。しかしこんな態度は、日本人が知性で世界に伍していこうとするのであれば、有害無益であろう。それから、保守的な人のよく言う、昔の古きよき日本人は優れていたが戦後教育によって堕落したという、何一つ事実の裏づけのない議論もまた。

(無題)  2007/10/23(火) 22:07:46
  今日の朝日の夕刊に、「乙女の祈り」を作曲したポーランドの女性作曲家バダジェフスカが、祖国では全く知られていないという話が載っていた。来日したポーランドの女性特派員も日本人に聞かれるまで存在を知らず、この曲が日本でたいそう有名なので、母国でバダジェフスカのことについて調べようとしたら、「なぜ、そんなどうでもいい人のことを調べるのか?」といわれたそうである。日本で知られている外国曲が、世界的にも有名曲かというと、存外そうではない例もあるらしい。「ねこふんじゃった」も、最近までどこの国の曲かよくわからなかったようだ。
 「乙女の祈り」のような曲をセミクラシックといい、ドーナツ盤が全盛の頃はクラシック愛好家の間でもこの種の曲はよく聴かれたものだった。その時代を肌で知っているわけではないが、たとえばアーサー・フィードラー指揮ボストンポップス管弦楽団の「ペルシャの市場にて」とか管弦楽編曲したリスト=ハーバード「愛の夢」、ガーテ「ジェラシー」などは、オールドファンには懐かしいであろう。かつてはフォスターの俗謡なども、日本人にはクラシックに分類され、堀内敬三あたりが解説したものである。CDの時代になり、これらの曲はめっきり聴かれることが少なくなったように思う。今の若い人は、もしかしたらこういう曲を聴いたことがないという人もいるのだろうか? そんなことを考えながら、久しぶりにクラシック小曲集を部屋の奥から探し出して、じっくり味わってみるのである。

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