(無題) 2007/10/31(水) 23:26:40 |
| PHP新書から高田智也『プロ相場師の思考術』という本が出た。内容を詳しく読んだわけではないが、その中に、いわゆる相場師の会合に出てみたら、ほとんどが印税で稼いでいる人だったという話があった。本を世に出している人のほとんどが実際には相場で食っているわけではないと著者はいいたかったのだが、私は、たぶんこの人たちも、「一時は」相場で食っていけたのだと思う。しかしある時期から勝てなくなり、仕方なく印税や、コンサルタントで稼いでいるのであろう。従って別段彼らが嘘をついているわけではあるまい。十何年も相場で勝てた人が、ある時突然勝てなくなるところに、相場師稼業の真の怖さがある。 |
(無題) 2007/10/30(火) 21:27:23 |
| 青森県黒石市が、竹下政権がばらまいたふるさと創生基金の1億円で作った純金こけしを売りに出すらしい。ようやく利益が出たのであろう。まあ、正解ではある。しかし今買う人は、今度の売り時は果たしていつ頃になるのだろうか。それともどこか旅館がやったように、これで黄金風呂でも作って客寄せに使うのだろうか。金は利子を生まないから、有効活用のためには後者の方法でも考えるのが方が賢明だな。 |
(無題) 2007/10/29(月) 22:24:04 |
| 三浦展氏といえば、『下流社会』で話題になった人だが、なかなか造語能力があるらしく、「ファスト風土」という言葉も生み出している。地方が疲弊してサラ金の看板とショッピングセンターばかりが展開する飢餓(ファスト)風土になりつつあると警鐘をならしている。しかしだからといって旧態依然としたばらまきを続けるわけにはいくまいし、小生は鈍感なせいかファスト風土が利便性追求の結果ならそれもまたやむを得ないような気がする。世の中には「工場萌え」という風に工業団地の無機質な造形に美しさを感じる人もいるくらいだから、SCやホームセンターが原野に出現する光景もまたシュールでいいという人もあろう。地方の振興は必要であるがそれは経済的な合理性に基づかねばならない。人口が減れば耕地の集積を促して競争力のある農家が復活する可能性もあると思う。 |
(無題) 2007/10/27(土) 21:22:54 |
| 掲示板でオプションが話題になっているが、7年くらい前に、私も一度だけグローバリーのホームトレードを通じて東京穀物商品取引所のオプションをやったことがある。大豆のストラングルの買いであった。もちろん全く流動性がなく、自分の建玉だけが1枚づつ東穀のHPにさらされていたのを思い出す。つまらないので成り行きで反対売買したら、思いっきり不利な値段で転売されてしまった。グロにえさをやったようなものである。馬鹿なことをした。難しく考えず、宝くじのようなものだと思えば、それはそれで楽しめるのかもしれないが、ふつうの先物でも時たま勘違いしてしまうくらいだから、オプションもうっかりミスのリスクというのも考えに入れなければなるまい。ゴールドマンサックスのeワラントなんていうものあるが、これは流動性があるんだろうか。 |
(無題) 2007/10/26(金) 20:53:04 |
| 銀行で、グローバルソブリンオープンのパンフレットをもらった。主要先進国のソブリン債(国債など)に投資するもので、その区利回りが結構人気を集めているらしい。銀行が販売を手がけるくらいだから、安全性の高い手堅い商品であるという認識なのであろう。しかしよく考えてみると、基本的なコンセプトはFXのスワップ狙いと大きな違いはないように感じられる。FXのスワップ狙いが理論的に実質金利以上に儲かることはないというのが、経済学者の議論であるが、その根拠は、利回りが高ければその分その通貨は安くなるはずで、世界の実質金利は同じになるはずだということである。しかしそうすると同じ論理を用いて、外国のソブリン債の利回りが高いのは、単にその通貨の目減りを織り込んでいるに過ぎないということになり、ソブリンファンドが日本の国債に投資するより高い収益を上げることはないように思われる。実際はどうかというと、ファンドマネージャーの腕がいいのかかどうかは知らないが、日本国債よりは高い利回りを誇っているようだ。はたしてFXも人々の腕次第、といえるかどうか。 |
(無題) 2007/10/25(木) 20:42:54 |
| 昨日、全国学力調査の結果が公表された。「知識の活用 苦手」などと書いてあったが、何を基準に得意なのか苦手なのか判然とせず、単に粗点が取れてないことを以てそう判断するのは、明らかにナンセンスであろう。こんなおかしな解釈をマスコミが疑いもせずに垂れ流すのは、日本の統計・論理教育の欠陥と感じられた。私は以前から、優秀神話のある日本人のオトナの知的能力が、欧米人に比べ、本当は決して自慢できるレベルではないのではないかと疑っている。そんなことより、思ったほど地域差がはっきりしないことと、「ゆとり教育による学力崩壊」が必ずしも正しくないことが印象に残った。 いわゆる「ゆとり教育による学力崩壊」は、実際のところ、いくつかの問題がごっちゃになっていると思う。大学の先生などが、近頃の学生の質が落ちてきたと感じるのは、実際のところ、少子化によってどの大学も入学が容易になり、以前より「地頭」の低い層が入ってくからではなかろうか。実際、1990年ごろに比べ18歳人口は60万人ほども減っている。学力の上位2割層は1990年も2007年もほとんど同じ熱意で大学進学を目指しているだろうから、これは事実上、1990年の東大の定員が5000人になったのと同じである。同様のことは大方の大学でいえるのだから、大学生のレベルが下がったように感じられるのは当然であろう。 しかしそのことと、学力の絶対水準が下がったかどうかとは、根本的に別問題である。まして数十年前の生徒より、今の生徒のほうが「出来る」であろう事は容易に予想される。今回の調査結果も軒並みそうなっている。電車に乗ると、「日能研」の中学入試問題を紹介した宣伝がいたるところで見られるが、大した名門中学の問題でもないのに、率直に言ってわが身を振り返れば、自分が小学校6年のときにこのような問題が出来たとはとても思えない。 私立中学の話で思い出したが、いまや東京では20%程度が私立に進学する。千代田区では50%程度が進学する。だから今回の結果を注意深く観察すれば、東京の成績が、小学生より中学生で全国レベルで相対的に低くなっているのがわかる。ざっと影響は2、3点はある。だが新聞ではなぜかこういう事実も指摘していない。だれでもわかってるくせに。例によって心の琴線に触れる話題は注意深く避けて議論にふたをするというのが、日本人の美徳なのである。しかしこんな態度は、日本人が知性で世界に伍していこうとするのであれば、有害無益であろう。それから、保守的な人のよく言う、昔の古きよき日本人は優れていたが戦後教育によって堕落したという、何一つ事実の裏づけのない議論もまた。 |
(無題) 2007/10/23(火) 22:07:46 |
| 今日の朝日の夕刊に、「乙女の祈り」を作曲したポーランドの女性作曲家バダジェフスカが、祖国では全く知られていないという話が載っていた。来日したポーランドの女性特派員も日本人に聞かれるまで存在を知らず、この曲が日本でたいそう有名なので、母国でバダジェフスカのことについて調べようとしたら、「なぜ、そんなどうでもいい人のことを調べるのか?」といわれたそうである。日本で知られている外国曲が、世界的にも有名曲かというと、存外そうではない例もあるらしい。「ねこふんじゃった」も、最近までどこの国の曲かよくわからなかったようだ。 「乙女の祈り」のような曲をセミクラシックといい、ドーナツ盤が全盛の頃はクラシック愛好家の間でもこの種の曲はよく聴かれたものだった。その時代を肌で知っているわけではないが、たとえばアーサー・フィードラー指揮ボストンポップス管弦楽団の「ペルシャの市場にて」とか管弦楽編曲したリスト=ハーバード「愛の夢」、ガーテ「ジェラシー」などは、オールドファンには懐かしいであろう。かつてはフォスターの俗謡なども、日本人にはクラシックに分類され、堀内敬三あたりが解説したものである。CDの時代になり、これらの曲はめっきり聴かれることが少なくなったように思う。今の若い人は、もしかしたらこういう曲を聴いたことがないという人もいるのだろうか? そんなことを考えながら、久しぶりにクラシック小曲集を部屋の奥から探し出して、じっくり味わってみるのである。 |
(無題) 2007/10/22(月) 23:26:13 |
| 朝日に柄谷行人氏が、オッペンハイマー著『人類の足跡十万年史』(草思社)とウェイド著『5万年前』(イーストプレス)の書評を書いていたので、早速読んでみた。両者はともにホモサピエンスの歴史を描いているが、彼にとっては、『5万年前』の中にユダヤ人の知能が高いのはここ数百年の選択淘汰のためなどという記述があるのがいたく気に入らないらしく、後者の本は驚くべき人種差別の本であり、それに引き換え前者は同じ題材を基にしているのに、科学的なマトモな本であると評していた。つまりそれだけ議論を呼ぶ本だということであろう。 『十万年史』は、いわゆるミトコンドリアイブとY染色体の研究に基づくホモサピエンス拡散の歴史である。しかしこの内容自体はいまや類書がたくさん出ており、詳しさを別にすれば、そう新味のある内容ではない。むしろこの本の主張の白眉は、いぜん私が眉唾と評した「人類は5万年前に突然完全な言語をしゃべるようになり、行動学的現代人が誕生した」という主張にはっきり異議を唱えている点である。著者オッペンハイマー氏が、このような説は進化論ではなく創造説だといっているのも、私が「キリスト教的創造説」といったのにぴったり当てはまっていて面白い。 『5万年前』のほうは、その題名からもわかるとおり、「創造説」の側に立っており、この説の主唱者クラインの説に沿って、いくらか穏当に述べたものである。そうはいっても一概にトンデモではなく、かなり興味深い主張が展開されている。そのひとつは、人類の知能やパーソナリティは、今もなお進化し続けているであろうというものである。5万年前の突然変異で真人間になったというのがこの人たちの主張であるが、さらに進めて、3万年前と、6千年前にも脳に影響を与える突然変異があって、3万年前の遺伝子は欧米人とアジア人に広がり、6000年前の突然変異は、中東から欧米人に広がっているという。勘のいい人ならば、この説に何かを感じることであろう(笑) ヒトラーならば、6000年前の遺伝子を「文明創造遺伝子」と名づけるに違いない。 それはとにかく、人類の精神面が意外にここ数千年単位で生物学的に変化しているということは、もしかすると大いにありうるのかもしれない。少し前にアメリカ人の遺伝子には、冒険心や好奇心の強いタイプが多く、日本人はそうでないという研究が雑誌に紹介されて、かなり多くの人を戸惑わせた。今のところこの研究に反論は出ていないようだし、日本の識者の多くはこのけっこう重大な事実を黙殺している。しかしこの違いは、ここ数百年の「アメリカ資本主義」の強い淘汰圧でおきたのかもしれぬ。事実ヨーロッパ人の好奇心の遺伝子のタイプは、日本人のそれとそう違いはないからである。 最後にひとつ。『十万年史』には京都大学霊長類研究所にいたという松村秀一氏という研究者が解説を書いているが、最近の古人類学のDNAに基づく研究についてのありきたりの紹介に終始していて、オッペンハイマーが強く主張している、アンチクライン・ピンカー・チョムスキー説すなわち言語早期出現説(言語・脳共進化説)に、一言半句も触れていないのは、この本の主張の大きな部分をはずすものといわざるをえない。日本の学者は議論になっていることには沈黙して中立を守るという、相変わらずの小心ぶりを露骨に見せられるような感じがして、実に物足りなく感じた。 |
(無題) 2007/10/21(日) 22:43:41 |
| 新司法試験が始まって以来、弁護士の就職難が現実化してきた。業界では、法務省の3000人合格計画に反対の声が続出している。しかし3000人合格者を出しても、法科大学院の卒業生のおよそ半分は「三振法務博士」になるのだがら、養成機関としては失敗としか言いようがない。結局アメリカの制度を中途半端に真似たのが、諸悪の根源なのである。 周知のとおり、アメリカの弁護士とは、日本の弁護士のほか、司法書士、行政書士、税理士といった職種をあわせたものである。ヨーロッパでは、日本と同様に,法律資格職が細分化されている国がかつては多かったが、最近はそういう資格を統合して、アメリカにあわせてきている。日本もアメリカ型(すなわち世界標準である)にするのであれば、まずこういった資格を統合することから始めなければならないのは、子供でもわかる論理である。それをしないのは、司法試験という難しい試験(それもかなりの程度丸暗記に依存する)に突破することを最高の権威であるとして絶対視するという、日本的な子供じみた価値観に、行政も弁護士たちもとらわれているからに過ぎない。 弁護士を増やせば質が低下するというが、そもそもアメリカ型の司法制度を導入するというのは弁護士を「ピンキリ」にしようというのであるから、いわば当たり前のことである。法律事務は、その多くはむしろ定型的なもので行政書士ぐらいの能力でも十分可能である。事実アメリカの弁護士の多くは行政書士のような仕事しかやっていない。それはそれでいいのだ。私は、せっかく作って法科大学院を無駄にしないためには、法務博士で司法書士、税理士、行政書士、税理士、社会保険労務士などを一定年限勤めれば、一律弁護士の資格を与えてやってもいいのではないかと思う。弁護士なんて、所詮その程度のものにすべきなのだ。 |
(無題) 2007/09/29(土) 22:46:25 |
| 今日で9月分の集計が出来た。しばらく日記は中断しよう。
9月計 商品12,200円 為替-44,413円(sp37,235円) |
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